きっと、台風が直撃したんだろう。けれども、私の心はもの凄く静かだ。心に底があるのなら、その底まで行っている。開き直る必要もない。

 心の底というのは、肉体と精神の境目みたいなところ。それは、深層意識のもっとも深いところでもある。意識が、心の底を超えると、未成熟の時は、意識の超越が起こる。超越に慣れてくると、仏教で説くところの、色即是空の「空」を知るようになる。「空」は、命という角度でみると永遠の命になるし、心という角度から見ると菩提心という言い方ができると、私は思う。もちろんその他にも言い方があると考えられる。

 さらに、心の空間の主観で言うと、観音経で言うところの、「真観清浄観(シンカンショウジョウカン)」「広大智慧観(コウダイチエカン)」だろう。しかし、残念ながら私は、深層意識のもっとも深い部分の全てにおいて、活性化を成就してるわけではないので、このテントの中の現状は、私にとって、「苦」だ。そりゃーね、真観清浄観でも、風にボコボコにされて、手が痛くなるほど、大の字になって、耐えていれば、「これは、苦だ。」と思うでしょう。

 なので、(取って付けたようで申し訳ないが)、四聖諦のことを考えた。

 四聖諦の四つの聖なる真理のまず一つ目。講談社の前記の経文より。

「苦という聖なる真理。

 友よ、それでは、苦という聖なる真理とは何か。生まれること(生体を構成する諸要素の顕現、もろもろの感覚器官の獲得などなど、)は苦であり、老いることも苦であり、死ぬことも苦であり、憂い、悲しみ、痛み、悩み、悶えも苦である。求めても得られないことも苦である。要するに、五つからなる執着された物と心の集まり(五取蘊)は苦である。・・・中略・・・。

 友よ、では、要するに五つからなる執着された物と心の集まりは苦であるとは何か。すなわち、執着された物質の集まり(色取蘊シキシュウン)、執着された感受の集まり(受取蘊ジュシュウン)、執着された表層の集まり(想取蘊ソウシュウン)、執着された意志の集まり(行取蘊ギョウシュウン)、執着された意識の集まり(識取蘊シキシュウン)、これらが、友よ、要するに五つからなる執着された物と心の集まりは苦であるといわれる。友よ、以上が、苦という聖なる真理といわれるのである。」

 私は、この風に飛ばされそうな時に、よくこんなことを考えていると自分でも思う。これこそが、執着じゃないか!。とも思う。ならば、だてに、考えている訳ではないのだから、私なりの説明をしよう。

 苦とは、「空」、永遠の命、菩提心、といわれているような普遍的基盤からのバランスや正しさを、なにがしかの要因で、人が見失っている時に感受する感覚だと、私は思う。そもそも、本来は、普遍的基盤からエネルギーが流れ出る時、汚れの要素がなければ、それは、当り前にバランスや正しさを持っているものなのだ。人々と社会が、普遍的基盤からのバランスや正しさを、見失っているから、生老病死が「苦」になり、心の空間の主観が必要以上の苦を感じる。だから、執着された物と心の集まりは苦である。どうだ。・・・つづく。