可能性の場とは、例えれば、それは可能性の渦巻く命の流れの川であろう、それは価値観が混在する混沌の川であろう。川とは、天からの雨が、くぼみを埋めて、ある方向に流れ始めるもの。
つまり、可能性の場とは、生命の営みと共に存在する場のこと。さらに引き寄せれば、正しい人生の営みに存在する場のことだろう。無茶とは違う。私は、この可能性の場の人生の流れを上手く泳ぎきれなくて、もがいているのだろうか?。
ある人が、お釈迦様に、
「あなたは、この川をどうやって渡ったのか?。」と聞いたらしい。お釈迦様は、
「溺れぬように、流されぬようにして渡った。」と答えられたらしい。お経に書いてあったと思う。
昨夜、テントの中で、私はそんなことを考えていた。そして、あるお経について、思い出していた。それは、講談社のブッタのことばシリーズの中の「四つの聖なる真理の分析(諦分別経)」についてだ。そのお経の一部を書いてみると、
==ある時、世尊(お釈迦さん)は、バーラーナシー郊外の仙人の集まるところ(仙人住所)である鹿の園(鹿野苑)に滞在しておられた。そこで世尊は次のようにのべられた。
「比丘にたちよ、如来、尊敬に値する人(阿羅漢)、正しく悟った人(正等覚者)は、かつてバーラーナシー郊外の仙人の集まるところである鹿の園において無上なる法輪を転じたが、これは、沙門、バラモン、神、悪魔、梵天、あるいは世間のいかなる人も逆転出来ないものである。
すなわち、それは四つの聖なる真理(四聖諦)の宣説、教示、告知、説明、開示、分析、闡明(センメイ)である。
四つとは何か。苦という聖なる真理(苦聖諦)、苦の原因という聖なる真理(苦集聖諦)、苦の滅尽という聖なる真理(苦滅聖諦)、苦の滅尽に至る道という聖なる真理(苦滅道聖諦)、(これらの)の宣説、教示、告知、説明、開示、分析、闡明である。・・・中略・・・これは、沙門、バラモン、神、悪魔、梵天、あるいは世間のいかなる人も逆転出来ないものである。・・・中略・・・。
比丘たちよ、サーリプッタは、聖者への流れに入った境地(預流果(よるか))へと教導し、モッガッラーナは最高の目的へと教導する。・・うんぬん。」以下略。==
私は、いかなる者も逆転出来ないものとは何だろう、と考えているうちに、なんと、睡魔に逆転されて、寝てしまった。・・・つづく。