なぜ、そんな赤ちゃんの心の空間まで立ち返って、話をするのかと言うと、「三つ子の魂、百まで」ということわざがあるように、大人になっても、赤ちゃんの時の心の空間が、素直に、あるは、屈折して、大人の心に影響を与えている、と私は考えているからだ。そして、その方が、私は、当たってるというか、ある人の行動を、理解しやすくて、また、修正しやすい時が多いと思うからだ。

 つまり、ある人が、大人になって、違う世界があるということを知ったとしても、その人は、自分でも気付かない内に、赤ちゃんの時の心の空間の幸せ感を、求めているような節があるように私は思っているのだ。ただ、過去からの業の影響ということも忘れてはいけないとも思う。

 私が、どうにも、黙りこくってしまうのは、若者も大人も、もっともらしい理屈を、正しく、あるいは、ずる賢く並べて、自分を表現するところだろう。それに加えて、心の隙間やキズがあったりすると(キズは、誰にでも、大なり小なりあるのだけれど)、だんだん、話がややこしいことになって行く。困ったもんだ。

 私としては、聞かない訳にもいかないし、聞かないと癖が分からないし、なので、辛抱しながら、もっとも心の深いところ、つまり、深層意識の誰にでもある仕組みを説明し、その人の心が、引っかかっているところに、やがて、気づいてもらうしかないと思っている。だた、その様な時は、その人にとって、手遅れかそうでないかのギリギリの時が多いのだ。つらいね。

 赤ちゃんの時の心の空間のように縁と愛に満ちた幸せ感は、みんなの心が、欲しがるもので、私はいけないとは思わない。しかし、思うようにならないからと言って、変な理屈と欲望で、自分を確かめない方が、業がややこしくならないと、私は思う。この確かめの行為は、レベルとしては、煩悩以前の問題だろう。悲しのは、その人も何かに苦しんだんだということだ。(余談だが、ヲタクと言われる人たちの「幸せ感執着」も、この赤ちゃんの時の幸せ感覚とそれなりに関係があると、私は個人的に思う。)

 その理由は、そもそも、自由感のある幸せは、永遠の命(菩提心)のもとにある訳だから、心の空間においての幸せ感の精妙な違いを察知すると、自ずと心の引っかかっているところが、分かってくると私は思うからだ。まぁー、だから、よせばいいのに、私は、その様な理由で、ややこしい説明をしている。

 ちょっと知っていれば、手遅れにならないで、しかも、迷わないで助かる人が沢山いると私は思うのだ。・・・つづく。