お遍路の空間・・・、空間があって、距離があって、祈りがあって、お遍路はその中を歩いている。祈りによって意識が洗練されると、意識のスピードが増す。その一方で、体感的には、物事がゆっくり流れているように感じることが多い。ちょうど、交通事故か何かで、死にかけたときに、その場面がスローモーションに見えたりすることがあるが、その感覚が近いかも知れない。また、野球選手が、バッターボックスで、ボールが止まって見えるというのも、それにやや近いかも知れない。いずれにしても、未熟な時の必死感覚ではある。
心にも、主観性(自我かな?)みたいなのがあって、時間を相対的な感覚で知覚して、時間を早く感じたり遅く感じたりするのだろうと思う。まぁ、無理して分かりやすく言うと、いやなことは長いし、楽しことは短く感じる、的なことかな。でも、これは正確ではない。もっと深い仕組みがある。
それで、・・・先に書いたように、心の主観性が、精神性(永遠の命)を維持していると、外の景色が、ゆっくり流れているように感じることがあると、結論するが。それだけではなくて、さらによく察知してみると、自分の中の時間の移り変わりの流れを、刻々と見ている意識があるようだ。それは、幸せ感覚を持っていて、精神性と物質性のバランスが保たれるようなかたちで、流れようとしているように思う。ただ、単純ではないと、私は考えているけれど・・・。どうだろう?。
精神と物質のバランスが保たれた時に、個人個人に可能性の場が、もたらされると思う。まぁ、簡単に言うと、気持ちと金があれば、なんか出来るということなんだけれど、縁(根っこ)がどこにあるかが問題なんだ。
現世を生き始めるということは、ここが出発点なんだろう。・・・・つづく。