[墓]、やがてそこには、燃え残りの白い骨が入る。死に際して、人間は、徳の他には何も持っていけない。しかも、その徳も、永遠の命に基づいたものでないと、善き役には立たない。人が、本当の浄土(天部)に入って、長く暮らしていくためには、現世の肉体が生きているうちから、永遠の命に基づいたところの善性を、身につけた方がいいと思う。

 死んだ人と残されて生きている人がいて、残された人の多くは、花を持って、何かを思いながら、お墓参りをしている。ちなみに、これは私なりの見方だが、甘えと共にがんばって生きて親不孝をした奴ほど、親が死んだあとに、良く墓参りをしてるようだ。・・・。

 ここの墓地の墓の形が不動明王の利剣の形に似ているので、お不動さん曰く、

「臨死体験の話の中の華のように、人生の中で、あるときは、人が人の愛情、つまり、華を求めて、さ迷ったり、嘆き悲しんだりしているような時もある。それは、突き詰めれば、愛がどこかにあるはずだと潜在的に知っているからだろう。愛が、全く何処にもなかったら、求める気すら起こらないと私は思う。

 結局、どこにでもあるはずの華、つまり愛を、心の底、つまり潜在意識で、見失っているせいだろう。

 もし、上手く気づければ、心の奥底に愛がある。ならば、なぜ人は、心の虚しさを埋めるために、さ迷い歩いているのか。哀れだ。」。私は答えて、

「愛と言う癒しが欲しいのは、自分や他人の煩悩に疲れすぎたせいだろう。疲れて、心が元に戻らないのは、心のどこかで、死んだら何もなくなるのだと考えているからだろう。その考えのせいで、思いが混乱して、仏に通じていることを忘れてしまう。哀れだ。」

と、お不動さんと自問自答してみた。・・・つづく。