話が、時間的に飛ぶのだが、私が八十八ヶ所を廻り終って、日記の整理をしていた時、この二十五日の日記のところに来た時、妙に行き詰まってしまった。記憶が、場面場面で、連続性が途切れているような感じがしたのである。原文にには、「岩手のお遍路さんと歩いた」、としか書いてないのだが、その時の記憶は、蘇って来る。
あおむけになって考えていたら、しばらくして、猫の印象が浮かんできた。あの車にひかれた猫だ。「えっ?。」
「まさか・・・。」と思いながら、
『だけど・・・。』
化け猫ではなくて、「猫の恩返し」・・・、そう言えば、見たことのない顔立ちだったなぁ。店のおばさんも私と彼の普通の会話に、妙にキョトンとしていた。彼女にはあのお遍路さんは、見えていなかったのかぁ?。まさか、そんなはずは、・・・、店のおばさんは、あのお遍路さんと、確かにひたしそうに話をしていた。えっ?、もしかして、それも私だけに見えていたの?。どうなんだろう?。
確かに、お遍路中に、弘法大師さんに会えたという人は今でもいる。私は、「お大師さんが、緋の衣を着られていた。」という人にもあったことがある。お大師さんは、あちこちに出てこられているみたいだ。
そう言えば、ヨーガの本に、幽界であれば、結構自由なので、動物でも一時的に人間の形をとることができるなどとは、書いてはあったけど、、、あの時は、幽界だったの?。お四国の空間ではあるけれど。
よく映画などでは、幽霊を恐怖のように描いているけれども、私の感覚だと、仏の霊体にしても、ただの霊にしても、本当に見えているときは、恐怖がないように思う。当り前で疑うことすらしないと思う。ただ後から考えると、なんであの場所にそんな人がいるの?、と思ったりもする。それでも、恐怖はないと思う。幽界を恐怖に思うのは、映画やテレビの作り物のせいで、その刷り込みが原因だと私的には思う。
それで、私は、傷ついた猫が、私のお経のお礼として、「自分は、大丈夫だから。自然に従って自分の始末はつけるから。来世は、猫じゃなくて、坊さんになりたいなぁ。」、と言いに来たのかも知れない、と思った。・・・「わかりました。」と私。・・・つづく。
(ちなみに、余計なことですけど、私は、どこかの芸能人じゃないので、シンナーも薬物もやったことはありませんので、幻覚的なことを書いても、誤解のにようにしてくださいませ。本当に見えているのと、幻覚もどきは、明らかにエネルギー量が違います。
また、「猫の恩返し」のフレーズについては、スタジオジブリが「猫の恩返し」と言う映画を発表する前、つまり、平成九年の一月ごろ、私が日記の整理をしていて、思いついたもので、ジブリさんのをパクッたのではありませんので、よろしく。ジブリさんは、それから一年か二年して、「猫の恩返し」を発表されたと記憶しております。)