私としては、お金もないので、托鉢のことが気にはなっていた。しかし、体もへたり気味だし、托鉢のできるようなエネルギーは、残っていないと感じていたので、なにもせずに、寺をとっとと出発した。

 すると、三十代の男性が「お布施をさせてください。」と、声をかけてきた。彼には、緊急の悩みがありそうだったので、私は、お布施の千円を受け取り、その場で、お清めを行って、無事を祈った。

 それにしても、私にしてみてば、「良かったの。」一言だ。これで、夕食の弁当が買える。朝からの空腹をもう我慢しなくてもいいんだ。

 これも、お大師様の計らいなのかなぁ。ありがとうございます。

 ところで、ここ二日ばかりだが、夕方近くになると、不思議に感謝の念が湧いてくる。体もしんどいし、お金もないし、先も見えないし、心は中途半端にしか満たされていないし、なにがどうしたという訳でもないのに、ジワジワと有り難い。

 一日中、ご真言を唱えることによって、正しい気の流れがゆっくりと出てくるのは、確かなようだ。それによって、正しく感じられるようになり、正しくものを考えられるようになっていくのだろうと思う。この場合の正しいとは、観念や価値観や主義や策略のようなものではなくて、絶対的な透明な流れだ。


 きっと、この世は、ヒィヒィと有り難いものなのかもしれない。


 御真言は、仏様の万徳を、伝達する言葉だという。

 御真言は、生命の甘美な面を、賛美する言葉だという。

 御真言は、摩訶不思議を、歓喜する言葉だという。

 蓮の花が咲いて、有り難く、仏様の無限の徳がそこにある。

 蓮の花が咲いて、感謝して、仏様の無限の光がそこにある。

 蓮の花が咲いて、風柔らかく、仏様の無限の心がそこにある。

 仏の心は、純一無雑無限に通づる。

 仏の心は、形なく、すべてのバランスを保ち、道を示している。

 永遠の命、菩提心。