次の札所までの道のりは、残り二十キロはある。車に乗せてもらったので、なんと本当に近道だった。
「私は誰、ここは何処。」のような状況でも、なんとなくつじつまが合うように出来ているのかなぁ、と私は、一瞬、思う。でも、それが本当かなぁ?。
さて、車を運転しながら、その男性は、自分の事を話し始めた。
この工場に来る前に、彼は、本社工場に勤めていて、難儀なところを身を削ってまとめていくような中間管理職だったらしい。現在は、何とかリストラをまぬがれて、今の工場に、単身で出向を余儀なくされている身の上だそうだ。「あの頃は、強引だったかなぁ。」と、反省しながら、憤っている。彼は、なんか良犬の負け犬の様な感がある。
最近の彼は、工場の現場作業をしつつも、慣れていないせいもあって心をズタズタにすり減らし、暮らしていると言う。
こういう時は、対向車のヘッドライトが妙にまぶしい。
『あーぁ、彼らは幸せな家庭に帰っているのだろうなぁ。』
どこかで誰かが、この世の矛盾を背負って生きている。細かく分析しても、所詮、人間の半分は、絶望を思わせるような事をする癖のある生き物だから、押しつけるか、引き取るか、有耶無耶にするか、煮えついてしまう。それでも、彼らは、不自然なストレスを、現世的な喜びというエネルギーでなんとかふき取りながら、心の転機を求めて、さ迷っている。
一人で突っ張れば、その多くは力負けして孤立し、職にも食にも困り。団体の中で甘い汁を、なあなあと吸えば、泥に足をとられ、なにも見ないようにしながら、みじめさで顔を洗う。
ルールはルールを知る者にしか通用せず、自給自足の夢だか、安らぎだか、強さだか、にあこがれて、自由と競争の前に、創造性と楽しみを求めて、立ち尽くす。そして、また大きな矛盾を抱え込む。所詮、人間のすることだ。つじつまなんか合う訳がない、・・のかもしれない。もっと、本当に当り前な生きるすべが欲しい。
そんな車の中で、彼も私も同じようにしょぼくれていたので、宗教の話になった。彼が、前を見たままで、自分の中を探るようにして語る、
「一般的に、四十代や五十代で神仏に信仰を持つ人は少ないでしょう?。私も、身体に力のあるうちは、信仰なんて、弱い者のすることのように、思っていましたから。でも、こうなって見ると、分かるところもありますよ。」と、謙虚に言う。…つづく。