講談社の本で、、「ブッタの言葉」と言うのがある。原始仏教典を日本語に訳したもののシリーズで、お釈迦様の説法が、そまま言い伝えられて、お経本として残り、それが日本語に訳されたものだ。その中に、「正しい道と誤った道(大四十経)」というのがある。それには、
ある時、世尊(お釈迦さん)は、サーグァッティ(舎衛城)のジェータ林にあるアナータビンディカ(祇園)に滞在しておられた。そこで、世尊はのべられた。
「比丘たちよ、聖なる正しい精神統一の場合、正しい見解は先行するものである。比丘たちよ、では、どうして正しい見解は先行するものであるのか。
誤った見解を誤った見解であると知り、正しい見解を正しい見解であると知る人には、かの正しい見解がある。
比丘たちよ、では、謝った見解とは何か。布施、祭祀、供物は無意味であり、善行・悪行の結果とか報いとかはない。この世は存在せず、かの世も存在しない。母もなく、父もいない。また、自然に発生する(化生)生き物も存在しない。そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世を、みずから明らかに知り、悟って、それを解き示すような紗門・バラモンたちもこの世間には存在しない。これが、比丘たちよ、謝った見解である。
比丘たちよ、では、正しい見解とは何か。比丘たちよ、正しい見解に二種類ある、と私は説く。汚れがあり(有漏)、福徳を部分的に持ち、果報として、身体という制約をもたらす正しい見解と、聖にして、汚れなく(無漏)、俗世間を超越した、道の項目としての正しい見解である。
布施、祭祀、供物は意味があり、善行・悪業の結果とか報いとかも存在し・・・・・うんぬん。以下略。」
私は、字面を読むのは、簡単だと思う。しかし、「聖なる正しい精神統一」という言葉だけでも、体験が無いと、普通は、まともな理解に届かないと思う。ある人と、別な人で、同じ行動を取っているとして、その人たちの精神面を見ると、同じ行動でも、一途なのと、純粋なのがあって、中身は違うという事だろう。また、ある人の純粋さにも、よく見ると程度がある。
私は、今の世の中の価値観は、法則性(命のルール)を忘れて、説明できないぐらいにさまざまだと思う。正しい見解を、どういうふうに表現できるのだろうか。・・・つづく。