私が、「じゃぁ、歩いたの?。」と聞くと、お婆さんは、
「歩けるところは。あんたも鶴林寺へ、お参りしたでしょう。」
「ハイハイ。」と、私。お婆さんは、
「あそこをに登る途中で、 霧が立ち込めて、一歩も歩けなくなったんです。」
「あそこの道は、細いから危なかったねぇ。」と、私。お婆さんは、
「あっという間の出来事でね、帰るに帰れないし、進むに進めないし。」と言う。私が、
「じっとしてたの?。」と聞くと、お婆さんは、手を合わせて、真顔になって、うなる。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、とお唱えしたんです。そうして、拝んでいた手を、こう、パーっと話すと、目の前の霧が、スーっと分かれて、真ん中から晴れたんです。それで、登って行ったんです」と、熱を込めて話してくれる。
また、お婆さんは、うどんを食べることが出来なかったのだが、食べれたことなど、不思議なことが、その他にも色々あったと言う。お婆さんは、この不思議な体験で、だんだんと、信仰の方に導かれていったのだろう。
お婆さんは、自分ではどうにもならないところを、「どうぞ、お助け下さい。」と、腰を折って祈る。私も、前の寺で「良くしてください。」「助けてください。」と言う多くの人の御祈祷をした。そのせいで、ボロボロになりかけたこともあった。
彼らの願いは、お粗末な願いもあれば、深い願いもありで、結果は、良い時もあれば、悪い時もあった。でも、彼らの多くが、密かに、あるいは、はっきりと、偶然ではない何かを感じていたのは事実だと思う。結果がどうであれ、何度かお参りに来るようになって、お経の一つも憶えるからである。でも、真理をどこまで分かってくれたかは、大いに疑問だ。
人々が、自分では、いや、人間では、あるいわ、人間の知恵では、どうにもならないところを(この世にはそういうところがあるわけだが)、手遅れにならないうちに、腰を折って祈る時がある。お婆さんは、病気の痛みの時も霧の時も、そうした。もちろん結果はどうか分からないし、とくに、彼女の場合は、生きて帰れると思っていなかった訳だから、祈りの結果はどうでもよかったのだろう。私は、そのようなどうにもならない壁が、この世と人間にはあると思う。だけれども、ある祈りが本物なら、透明な永遠の命に基づいているものなら、結果に関係なく、心の奥底に、永遠の命に触れた時の喜びの灯がともる。現世は、そういう仕組みなのだ。また、この世の壁と願いとの関係も、命の灯をともす為の仕組みだと言える。喜びの灯は、命の喜びであり、命のルールであり、命の幸せなのだ。これは、命乞いとは違う。そこにあるものなのだ。
人の心に、命の喜びの灯がともると、本物の信仰を知ると思う。・・・つづく。