私は、お婆さんが遍路に出る運命だったのかなぁ、とも考えたし、お大師さんのはからいなのかなぁ、とも考えた。まさか、家族の人が、知人に頼んでお婆さんに十万円を持たせたと言う事はないでしょう。私が、
「良かったね。そのお金で、タクシーか何かでお参りで来たの。」と聞くと、お婆さんは、
「いいや、初めから帰れると思ってなかったし、だいたいお金なんて、病気をしていると関係無くて、つまらないものよ。」と言い切る。
「そうよのぉ。お金はあの世に持っていける訳でもないし、病気を直接治してくれる訳でもないしのぉ。」と、分かったふうに私。そして可愛げに、
「・・で、十万は?。」と、よせばいいのに、聞いてみる私。お婆さんは、勢い良く、
「一番のお寺さんにみんな寄付して行ったよ。」と言う。
私は、先ほどまで、托鉢しようかどうか迷っていた。そして、托鉢は自他共の昇華のためにしている訳だけれども、まだまだ、私の心の中には、くだらない迷いが多いな、とも思った。この事を、お大師さんは、お婆さんを通して、私に気づかせたかったのだろうか?。
お婆さんは、その家に嫁に来て、病気になった。彼女は、その家の業に対する免疫が出来ていないので、一人で何かの因縁を背負うことになったのかもしれない。因縁が昇華しきれないから、命がけの遍路に出た、と診れば、私なりに命の動きが分かるような気がする。
お婆さんは、今でもこうして生きている訳だし、あの十万だって、彼女の家族のこころづかい的差し金だったとしたら(差し金でなくてもいいのだが)、お婆さんが、一番札所さんに、全部寄付することで、家の因縁の昇化が起きたのかもしれない。お婆さんが、金銭欲・物質欲で動かなかったところに、昇華のポイントがあったのだろう、と私は思う。お婆さんが、ぎりぎりの中で、曲がりなりにも、透明な命で判断したからだと思う。
ここで、今、私がお婆さんと話していることも含めて、これ全体がお大師さんの計らいなのかもしれない。
自然の計らいの中の、昇華の為の運命に、お婆さんもその家族も、うまく乗れたのだと思う。私も乗りたい。・・・つづく。