大師堂をお参りした後、動こうとしたら、足の裏に根が生えたような感じがして、その場から動けなくなった。本堂をお参りした後、足が痛いなぁ、と思っていたが、今のこの状況は何なんだろうと思う。人はいないし助けも呼べない。このまま私は、ずっとここにいるのだろか、と不安にも思う。
仕方がないので、しゃがみ込むようにして、膝を両手で抱え、足を動かしてみる。ちゃんと動く。足に意識も通じるみたいだ。良かった。少しずつなら動ける。数歩だが、歩いているうちに、それなりに動くようになってくれた。良かった。しかし、足が痛い。足をつくどころか、持ちあげるのも痛いのだ。その痛みは骨の中から来るような感じがする。そうか、だから、脳が深層意識で、勝手に、足を動かないようにしたのだと思う。
座り込んで、靴下を脱いで、足の裏を見て見ると、両足に五センチぐらいの水膨れの豆が出来ている。その水ぶくれを潰さないでいるものだから、その豆の中に、三~四センチの豆が出来ていて、そのまた中に血豆が出来ている、さらに、その血豆の中に、一センチぐらいの血豆が出来ている。そりゃ、痛い訳だ。足裏の皮の四層構造が生きたまま見てわかる。どうしたらいいんだろう。
どうしようもないから、痛い足を引きずって、納経所にご朱印をもらいに行く。私としては、痛そうな姿は見せないようにしていたつもりだったのだが、寺の奥さんが「お茶でもどうぞ。」とお茶とお菓子を接待してくださった。私は、「この山に登って、お遍路旅で、初めて少しすっきりさせていただきました。」と伝えた。
それから、お礼を言って、心配をかけたくないので何食わぬ顔をして、道に出たのだが、足が痛い。それでも、足を引きずりながら歩いていると、痛みが作用して、脳に快楽物質を作るのか、痛いながらも歩けるようになる。今朝の光りの体験とは、まるで逆の脳内快楽物質の作り方だ。同じ道なのに。行きはよいよい、帰りは恐いだ。「何が、この世を、どう考えるだ。馬鹿にしてるんじゃねーよ。こんちくしょう。」参った、参った。
そう言えば、今朝の光の体験のように、至福感覚が高まると、物質欲がその時はなくなるような気がする。人が幸せいっぱいでなにもいらない、と言っているときがそれによく似ていると思う。もちろんエネルギーが流れている、その量に大きな違いがあると思うのだが、その時の条件次第だと思う。
また、痛みの場合も、激しい痛みで物質欲は考えられないと言うのもあると思う。至福でも痛みでも、いずれにしても、程度の差がありながらも、快楽物質を、脳は、作り出している訳だ。だから、そこから先が、問題なんだと思う。脳内反応だけでは、納まらないところがないと、物質世界を越えて行けないから、やがて、行き詰まるだけだと思う。
夕方まで、ぼちぼち、歩き、何とか麓までついて、小さな公園にテントを張った。必死で御真言を唱えた。…つづく。