忘れていた。一万円のお布施を受けた時に、老僧?(高級車の宗教家)は、黒飴も一袋、私に渡してくれていた。よほど私が、バテテいるように見えたのかもしれないが、やっぱり、老僧の気遣いが伝わってくるような気がする。 ひと味、違うものが心に届いた。飴は拝んであって、滋養になるような気がした。しかし、舐めてみたら、普通の飴のようにも思えた。まっ、どっちでもいいけど、有難い。

 やがて坂道にもくたびれて来て、飴をなめなめ、杖を頼りに登ることになる。

 登りの終わりに、神峰寺の大きな駐車場があり、私はその駐車場の端から、ふもとの方を見渡した。 

 雲ひとつない。まっ青な空は透明感すらある。

 宇宙の空は奥高く、私の意識は誘われて、魂は飛びたい気持ちになる。

 青い海は、宇宙の色を写していて、永遠に続いているように感じ、空と海の間で、白い波と太陽の光が、キラキラ、キラキラ、はじけている。キラキラ、キラキラ。キラキラ、キラキラ。その光の中に、山のふもとの家々の生活がある。キラキラ、キラキラ。愛らしい。

 私の命の視界は広がって、地面も、身の回りの空気も、日光でいっぱいのように思える。

 まぶしい光の中で、キラ、キラ、キラ、キラ、キラ、キラ、と、光りの宝石が挨拶をしてくれているようだ。私はその光りを手ですくいたくなる。

 真の本当の喜びを感じた時、あの世とこの世と、全体、私は何を思うのか。(あなたは何を感じるのか。)

 空と海と広い視野と光りに、私は、理趣経を一巻、お唱えした。

 清浄な空と海が、永遠の命の象徴なら、まっ透明な永遠の命に対する気づきが、生きる人に本当に備わっていれば、忍耐することは、悪いことではないのかもしれない。善き事が入ってくるための前触れのようにも思える。

 山に登って、心が素直に、「幸せや救い」に、動いてくれたので、これまでになくさっぱりさせてもらった。

第二十七番神峰寺(本尊・十一面観音・おん まか きゃろにきゃ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)を、お参りする。・・・つづく。