私は、そんなことをグダグダと思いながら、食べ終わったので、席を立って、部屋に帰った。ドアを開けると、もう蒲団が引いてあったので、『本当のことは、分かりにくいよねぇ。』と思いながら、布団にくるまった。すると、どういう具合か知らないが、
「今宵の布団も、昨日の砂利の上の寝袋のように、とてもいい気持ちだ。柔らかい何かに包まれて、溶けていくような自由感がある。そして、温かい。もう、砂利の上で寝ても布団の上で寝ても、こだわりのない感じだ。私の心は振動するエネルギーで埋まっているような気がする。親子でも、恋人同士でも、音楽でも、清らかな愛がある時、こんな感じになるのるのだろうけれども、それよりもはるかに、いい感じがする。
神様仏様御大師様のお陰と思ってしまう。そもそも、世俗界の問題の中で、何かが変わった訳でもないのに、問題が、あまり気にならなくなっている。それは、割り切っていると言うのとは違う。今この時、この現世レベルのエネルギーよりもはるかに大きなエネルギーの様なものが、体を流れているからだと思う。だから、問題が気にならないと言うか、解決している感があるのだ。これが真の理だと思う。永遠の命のエネルギーとその命のルールだと思う。いい気持ちだぁー。
私は、心のエネルギー不足になり、お遍路をさ迷っている訳だけれども、答えを出そうとしなくても、求めていれば、答えを分からせてくださると言う感じかする。だから、仕組みは、わかる。でも、説明は色々になってしまう。ただ、汚れてはいなくて、当たり前すぎて、、、難しい。
それは、命をたとえに話すのなら、知らず知らずのうちに心臓うが動き、知らず知らずのうちの息をしている。それが、命の不思議なんだと言っているようなもんだと思う。これでは、当り前過ぎるのだ。
ただそれらが、人の中で、エネルギーを持ちながら、命のルールに従って洗練されていくと、人はやがて、命の元を、慈愛に感じるようになるのだと思う。
やっぱり、説明は難しい、感じてたり、見たりしないと。しかし、感じるとその人の主観が入りすぎて、危うい人もいる。見ると、固定感になってしまい、本質を間違う人もいる。近くて遠い永遠の命の道。遍路の道は白い道。
重荷ばかりが増えたようでも、釈迦の掌、孫悟空。幸・不幸もそうしてくださっていると言う事かも知れないが、受け入れるのはつらいねぇ。そして、それでも、綺麗になれなかったら、つらいねぇ。つらい。
砂利の上でも、布団の上でも、幸でも、不幸でも、身も心も綺麗になるように祈るしかないんだろうなぁ。でもこれが意外といい気分になって行く時があるから、不思議だ。捨てたもんじゃない。
南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛・・・・つづく。