アル中など、酒に頼るのは、冷たい事を言うと、心と体のエネルギー不足だと思う。

 それでなくても、心の生命エネルギー不足の世の中と孤独の中で、

 誰かの否定を受けるのは、己が命のある証なり。未熟な命は、粗雑なり。闇路に否定を繰り返す。敵わぬ否定に負ける時、希望が破れて、孤独が襲う。それでも豊かな命はそこにある。それでも豊かな命は心にある。これをすべて取ること、だれにも出来ず。一つの命が磨かれて、透明な永遠の命に気づくなら、大切に思うが寛容なり。大切に思うが心理なり。だから、まっ透明な命に対して、拝むなり、豊かな命を心の中で拝むなり。闇路の自分を通して、拝むなり。祈って、拝んで、安心と幸せがあること、知らされるなり。むかしの賢者が、説いた知恵、心に存在することを知らされるなり。闇路の終わりを知らされるなり。透明で豊かな永遠の命は、支えてくれる。闇路の終わりを、心に知らされるなり。豊かな命は心を支えてくれる。遍路の道は白い道。真言を唱えてただ歩く。

 最御崎寺からの高台の道を、私と広島の遍路さんと下って行くと、キラキラ光る太平洋の雄大な海が、そよ風と共に迫って来て、「わぁー、綺麗だなぁ。」と思う。納得いかないままの被害者意識が、太平洋に圧倒される。

 最御崎寺で、私は、数珠と白いズボンを買ったので、お金がなくなり、残り少ない貯金の中からお金を下ろすために、通りすがりの銀行に寄った。その時広島のお遍路さんは先に行った。

 このお金がなくなったら、旅を終えた後、どうやって生活するのだろうとぬるい事を考えながら、相変わらずとぼとぼ歩く。チン、チン、チン、と鈴を持って歩いていたら、地元のおばさんに呼びとめられて、お布施を受ける。そして、その人の家を拝むことになった。おばさんは「年を取っても色々あって、断るに断れない重荷ばかりを押しつけられて」と、人の世の言うに言えない重荷を語る。私もそう思うと答えた。

 遍路の道は白い道。商店街を通って、

第二十五番津照寺(本尊・楫取地蔵菩薩・おん かかかび さんま えい そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りした。

 津照寺は、百段余りの階段を登らなければならないのだが、石段の途中に、竜宮城の門を質素にしたような鐘ロウ門?があり、私は、妙に印象に残った。

 竜宮城と言えば、昔話の「浦島太郎」がある。綺麗な乙姫様がいると言う竜宮城とは、人間が「老い」を知るまでの「精神と時間の国」であるという解釈はどうだろう?。亀を助けた綺麗な徳が、乙姫様に結びつく訳で、心に綺麗な徳=乙姫様、がいるうちは、いつまでも老いを感じないですむ。そういう主題があると読むのは、どうだろう。人生の時間の中の出来事が、重荷なのか、徳を積むことになるのか、迷いになるのか、遍路の道は白い道。透明な支えがあれば白い道。南無大師遍照金剛。・・・・・つづく。