…命は自然の理法の道を進むもの・・・・

 拝もうが拝むまいが、まっ透明な永遠の命の感覚を、自然に自覚している事は、僧侶は特にそうだが、普通の人にも大切なことだと思う。でも現実も真実も言葉に出来るほど、簡単ではなく、迷って、耐える事の方が多いのかもしれない。それでも、寿命があるうちは、何とかやっていって、諦めながらでも、希望や喜びを見つけているのが、多くの人の本当のところだろうと思う。

 その中で、ある人たちは、生死を越えたところで、自然・宇宙の理法を感覚として知って行く事になるようだ。その生死を越えたところでは、罪も責任も昇華も至福も夢も希望も・・・正しく存在しているのだと思う。私にアドバイスをした老僧も、前の寺の住職も、善とも悪とも(分かっていても)、言い切れないが、誰でも無意識の生きざまのハシハシに見えてくるものがあるように思う。

 現代の脳科学によると、人間の脳は、0.1秒で、無意識のうちに、その人の様子、つまり、生きざまの感じを判断しているらしい。もちろん人間の事だから、どこまでの幅で理解し判断しているのかは、器によって違うのだろけど・・・。

 「じゃぁ、だから何?。」と聞かれると、とどのつまり、心のいちばん深いところの個人感覚の枠を外した領域で、この世をどう感じて、生きているか、と言う事だと思う。

 まぁー、簡単に言うと、この世が、楽しいか、苦しいかと言う事ではあるが、決してその判断は薄っぺらなところのものではないと思し、疑問に耐えられるだけのものが、この自然宇宙のもともとある仕組みに、存在していると私は思う。過去の聖者たちもそう言っている。

 私も発心の道場が終わって、これから、お四国の八十八か所の中の修行の道場へ入って行く訳だが、どんな結果になるのか、何を思うのか、本当のところが始まるようだ。私の心は永遠の命で埋まってくれるのだろうか。歩いて、歩いて。

南無大師遍照金剛。・・・・つづく。