老僧の言うところの「自分の甘さに気づけ。」とは、どう理解したらいいんだろう。

「世の中は、仏様みたいな人ばかりではない。だから、道義的でもないし、神秘的でもない。ゆえに、もっと計算しろ、もっと忍耐しろ、もっと信じて頑張れ、もっと自分を磨け。」という事なのだろうか?。それとも、

「一生を左右するような理不尽で、不幸な沙汰を受けても、一生を通じて普遍的に存在しているはずの永遠の命からみれば、大したことはない。だから、自分がまともなら、本来わだかまることもない。」という事なのだろうか?。または、

「世間の悪行というのは、お前が認識しているより、遥かにえげつない。だから、根性を据え直せ。」という事なのだろうか?。

 そんな、「甘さ」についての三つの考えが浮かんだ。

 まぁー、だけど、私は結果が悪かったと思っている訳で、そういう種類の人間に対して、自信ありげに、「おまえが甘い。」と言っておけば、だいたい説教にはなると思うのだが、・・・。忍耐の訓練ぐらいにしかならないような気がする。ただね、「三つの甘さ」は、これまた、全種類、少しずつ、私にも当てはまっている。と言うか、反論しない限り、誰にでも当てはまると思う。悔しいね。

 永遠の命や、神仏の心は、やはり慈愛に感じる。それを、ただの甘さでひとくくりにして、話をしたら、味噌とクソの違いが分からなくなっしまう。もともと、清浄さが違う訳だから。へ理屈をからめても仕方がないだけだ。

 私は、永遠の命の慈愛は、体感として、甘い感じはあると思う。しかし、そこにスキはないように感じる。それでも、人は甘さを求めると思う。それは、夜中の電燈に虫が集まるようなものだろう。光が太陽なら普通に生命をするが、電燈なら死ぬ確率が高い。つまり、甘さの種類に気づけることが必要なのだと思う。だけど、今の世の中じゃぁ、心が通じる事が少ないから、価値観同士の戦いになって、厳しいと言うか、生きずらくなってしまうのかもしれない。老僧の言わんとするところは、「甘さの検討を深くしろ」ということにしておこう。・・・つづく。