今日で、一番札所からの発心の道場の終わりだ。
発心とは、菩提心に気づくこと。例えば、ごく当たり前のまっ透明な永遠の命に気づくこと。それを知って、それに従う事を良しとして、最上の正しい悟りを求めるような心を起こすこと。発心は、一応、仏道の第一歩でもあるが、深く見れば、そこには、かの世とこの世の無限の内容を含んでいる。もともと、菩提心(永遠の命)は、生死と生々流転の中で、極めて有益なものとして、人々の魂の中で、生育くするようには出来ている。ただ菩提心(神)は、時々、一番好きなものを、取り上げてしまうように感じる時もある.。が、実際は、自然宇宙の道理の流れが通れば、甘いも辛いも越えていくものなのだろうと私は思う、・・・?。
それにしても、昨夜は参った。テントを張った場所は、倉庫の軒先だったのだが、その倉庫はしばらく使っていないようで、私は、水もなくなり、のどが渇いたので、遍路特有の自由な感覚も手伝って、少しだけと思い、怪しい蛇口の水を飲んだ。そうしたら、赤錆びのジュースだった、、、ようだ。暗くてよく見えなかった。仕方がないので、下痢することを覚悟して寝た。
朝六時に目覚めて、いつものように瞑想をして、出発。ほんの少し歩くと次の札所があった。
第二十二番平等寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りして、万病に効くと言う[白水の井戸]の水を頂いた。昨夜ここまで来てれば、綺麗な水が、飲めたのに・・・。
次の二十三番札所までは、二十キロぐらいある。覚悟を決めて歩き始めた。しかし、体がだるく、何度も座り込んで休む。穏やかな県道の登り道を、トロトロあ歩いていると、「途中まで乗らんかね。」と言って、軽自動車が止まっくれた。私は、「助かります。」と、喜んで車に乗った。娘さんのところに行く途中だったらしい。
車を降りて、私が窓越しに再び運転手さんにお礼を言うと、「私も徳を積ませてもらいましたよ。」と、清々しく軽やかだ。合いたがいて、永遠の命のルールのお助けかもしれない、と私は、思う。白の道。
町中を歩いて、
二十三番薬王寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りして、門前で、托鉢させてもらう事にした。・・・・つづく。
(すいませんが、ちょっと用事が出来ましたので、日記を二・三日休ませていただきたいと思います。まだまだ先は長いので、再開したらよろしくお願いいたします。)