今朝は四時に起きた。朝は、再生だと考えたい。

(これは説明するために書くのだけれども・・・)

死んでいる事は分かるけれども、死そのものに形はない。生きている事は分かるけれども、命そのものに形はない。死と言われるものの、同じところに命があって、それは命の永遠性にも繋がっていて、普遍性にも繋がる。[永遠の命]と言う場合もあるだろう。

 永遠の命は、あらゆるものの創造から始まって、あるいわ、その自動的な(自然な)創造(想像)性から始まって、実現性を持っているのは、確かだ。なのに、現世では、なぜかそのまっ透明な命が、壁になっているように思う。神のいたずらなのだろうか。例えば、動けばエネルギー不足になり、続ければ動けなくなる。しかし、動かないと何も始まらない。そして、成功と失敗とほどほどがある。結局、いつも道は細い。芭蕉が[空]と歩いた、奥の細道みたいなもんだ。覚悟して、出発しますか。

 県道を歩いて、二十番札所に向かう。コーン、コーン、と杖を突くたびに、その音があたりの空気に反響して、響いているように感じる。体力がなくなているので、敏感になっているのだろうか。神秘体験の始まりか?。ほら、来た。

「お遍路さん飲んで行かんね。」山への登り口のお店の昔のお姉さんが、お声をかけてくださる。元気はつらつオロナミンシーを、手渡してくださった。思わず、ニコッと顔がほころぶ。私は御礼だけを言って先を急ぐ。視線を感じて、かなり離れた所から、振り返ってみると、おばさんが心配そうに見送ってくれていた。私は、よほどの姿だったのだろう。少し話をすればよかったと後悔した。それから、急な坂道を登って寺に着く。

第二十番鶴林寺(本尊・地蔵菩薩・おん かかかび さんま えい そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りして、次の札所に向かう。

 山道を、十三丁くだり、再び標高六百メートルまで登る。

第二十一番大龍寺(本尊・虚空蔵菩薩・のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おん あり きゃまりぼり そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りする。

 大龍寺を出たところで、暗くなり始めた。この季節だと日の暮れるのは早く、やがて、真っ暗になって、竹林の中の細い道をひたすら歩く。竹林は、よく手入れされていて、竹の葉が、細い道に折り重なって積っていて、足には柔らかい。それが救いだった。目を凝らして、白く見える竹の葉の道を、ただ歩く。ニ河白道図の中を歩いているようだった。この先に、阿弥陀様はいてくれるのか。

 峠を越えてから、やっと、テントを張れる場所を見つけた。体中が痛い。それでも何とかなるもんだと思う。しかし、その一方で、苦労して登った割には、不満が残った。どうしてなんだろう?。根本的な矛盾?。托鉢のお金がゼロになる。一日じゅう、御真言を唱える。・・・つづく。