人間という生き物のどうしようもない部分に心を広げれば、ますます身をけずり、広げなければ殺伐とする、オブラートで包めば虚しさを呼び、考えないようにして続ければ、ぬてっとして、成功と失敗と不信の中を急がされて生きる。ザルのように世間を体験して、それをまとめて、つぶれて暮らす。それでも何とか人生は動いている。
死は、孤独だよね。一生懸命生きたけど、やっぱり、どう生きたらいいのか分からなかったよ。
『こんな自分でごめんね。』
あるおばぁさんが言っていたよ。日赤の看護婦していたころ、時々、「死にたくない、死にたくない」と言って、看護婦さんに、あれしてほしい、これしてほしいと、自分の心を埋めようと、ネゴをする人たちがいて、もう嫌になるぐらいなんだけど、でも、その人たちの半分ぐらいは、死ぬすぐ前になると、ありがとうございました、と言って、静かに息を引き取るって。残りの半分の人は、そのまま苦しんで死んでいくと。
最後の最後まで、死も人生も、その人の心のものなんだよね。心の根っこが、どこを生きているかだろうけど、生命エネルギー不足の輪廻が魂を曇らせているから、多くの人が混とんとしている。ある時は、理解できなかったり、騙されたり。いつしか、つかの間の喜びに心が捕らわれ、妥協点を探し、続いているうちは幸せを感じ、敗れれば永遠を求める。しかし、たどり着こうにも、[永遠]にたどり着くすべを知らない。気づけない。
終わることだけを願う死は、孤独だよね。
でもね、「もういいかぁー。」っ感じる時が来ると思うんだよ。一生懸命生きた事も、心の傷も、「もういいかぁー。」って。それは、絶望からでもなくて、成功からでもなくて、ほーっとして、「良かった、もういいかぁー」って、思えるんだよ。自分も不思議な慈しみに繋がっていると思えるんだよ。繋がってるって。
透明な生命とも繋がっているし、何か永遠のものに支えられた世界にもつながっているし、神様仏様にもつながっているって。今日の子犬もそうだけど、その愛らしい動きが、不思議に生きていて、完成された心のように通じて繋がっていたんだよ。愚かさがなかった。
どこにでもあるこの繋がりを、人の心は死を前にしないと分からないのかなぁ。でも、死を前にして、遅ればせながらでも、気づければ、それは心にとって光りだよね。感謝だよね。ありがとうだよね。ありがとうって、素直に言えるんだよね。本当の感謝の意識は、起きている現象の向こう側から、来るんだろうね。むこう側の愛だよね。
だから、一人でも、自分で自分を救う事が出来るんだよね。いい仕組みだよね。自分の心が自分の魂に従って自立するんだよね。いい仕組みだよね。生命の進化だよね。・・・と、空中に浮いたような思いが廻る。・・・つづく。