旦那でも、奥さんでも、本人にしてみれば、自分は頑張ったけれども、『心に傷を受けた』、『感謝の言葉すら帰ってこない』、ぐらいは思うのかもしれない。それでも生活していくと、『自分さえ無理をすれば、解決なのかなぁ。』と考えたりして、不満にも慣れてしまって・・・。誰かが、[無償の愛]を解いたりすると、それを頼りに、日々を送るようになったり・・・。
それも悪くはないけど、でも、時々ほんのりつらくなり、物足りないとも思ってしまうのだろう。加えて、家族同士でも、生存欲と言うのがあるから、家族の繋がりを求めている割には、自己保存欲の意地を張っているようなありさまで、・・・・、若い時、みんなが欲しがっていた、永遠の愛、などと言うものには、たどりつかない様子だ。
夫婦でも家族でも、死別の悲しみは、生死を越えたところで、ゆっくりと噛みしめないと終わらないのかもしれない。真面目な分だけ、人生全般がかかわってくる。だから、受け入れがたいことも多いので、つまづいてしまうのかも知れない。でも、その人生全般に、必然的に透明な命が流れている訳で、それは、普通であれば、神・仏・自然の[無償の愛や慈愛]と直接的に感じられる訳で、・・・・どうも、つまずきと無償の愛は感情がぶつかる。私は、その未亡人に、
「あの世とこの世の境目には、心が溶けていくための海があると聞きます。気を取り直して、少しづつ拝んで供養してください。」と伝えた。「また、いいこともあるから」とも付け加えた。が、それが今の私には、精一杯だった。彼女は、「少ないですけど」、と言って、お布施を差し出された。
一人になって、しばらく歩いて行くと、側面が鏡張りの様な未来派のビルがあって、そのわきに、広い公園があった。私は、ここにテントを張ることにした。
見渡すと、川沿いのベンチで、学生服のアベックが、今と未来に寄り添っていた。私は彼たちが、永遠の愛にあこがれているんだろうなぁ、と思う。いつもどこかで繰り返される、男と女のドラマが始まっている。
あのね、君たちのあこがれている、永遠の愛はね、透明な命から出てくるものでね、心のいろんな事を全部通り越して、全部流してから、自分自身の中に、透明な正しい動きとして現れてくるのね、そして感じるのね。本当の人生を。・・・・・うん。合掌。南無大師遍照金剛。一日中御真言を唱える。・・・
それにしても、わしゃ、一人じゃ。ははっ。一人で死んだら、ゴミかぁ。・・・ゴミなら、洗って、綺麗になろうと、ちかくの風呂屋に行って、体重を測ったら、五キロ痩せていた。ちょっといいかも。・・・つづく。