昨夜は、夜遅くなって、腹が減って眠れなかった。今朝は四時半に目が覚めた。やはり、十一月の明け方は冷え込む。いつものように瞑想をして、荷物を整理して出発する。途中の自動販売機で牛乳を買った。

 舗装道路をしばらく歩いていくと、遍路道が二手に分かれていた。一方はアスファルトの道で曲がりくねっている。他方は山道で草が刈り込んである。私が「山道の方が近道そうだなぁ」と見ていると、鳥がさえづった。私は仏の誘いだと思ったので、山道を登ることにした。

 焼山寺への道で、相当くたびれてイライラしている。まともな人生道を歩くのか、ひね曲がった中でたたかれながら歩くのか、この道は正しいのか、登りのつらい山道を歩く甲斐があるのだろうか、などと、思ったとたん、

[身(御)仏に 誘われまして 春遍路]

と、目に入ってくる。小さな道しるべの板に書いてあって、ヘラヘラと私を笑うように揺れていた。目の前に五十代の女性が書かれたのだろう、と言う事が浮かんでくる。粋だよね。「なかなかそうは思えないよ」と独りごと。

 無理に遍路道を通らなくても、アスファルトの道を通れば、廻り道になるけれども、なんとかいけそうな気もする。その方が楽だったかも知れない。しかし、やはり道に迷わないように遍路道を登ることにした訳で、おかげで色々な思いが廻った。

 お遍路さんが通れば、どこでも遍路道なんだろうけれども、やはり今通っている道が遍路道で、これしかなく、観念の中に、絶対というものを感じた。苦しい道でも、これで間違いがないと思えるからこそ、喜びが生れてくるのだと思った。自然の中でお遍路をして、自然の中に法則、決まりがあって、それは、やがて必ずそうなる訳で、そこに間違いがないと思えるようになるからこそ、信じれるのだと思う。

  信仰  南無大師遍照金剛

 今まであった辛いことも、やったことも、色々考えて受け入れて、絶対を知って、今ある自分を知って、その言葉に成り得ようとしている力で蘇るんだと思った。その過程で、起るべき現状を、小さな頭で推測するのではなくて、絶対と共に人生を生きるんだと思えた。

 神と言ってもよい、仏と言ってもよい、大師と言ってもよい、心の中のそれと生きようと思えた。『そうするよ。』と独りごと。バランスを取り戻そう。幸せもその中にあると思えた。頭の中を勝手に思いが走って、励ましを感じる。

 同行二人  南無大師遍照金剛  御真言を唱え続ける。・・・つづく。