昨日のお風呂屋さんを教えてくれた,人の良さそうなおじいさんが、今朝は公園の掃除をされていた。彼が「坊さん、今日は降水確率70パーセントだと言っていたよ。」と教えてくれる。それを聞いて私は、足も痛いし、テントの中で雨宿りをして過ごそうか、とも考えた。しかし、瞑想をすると、先に進もうと思うようになる。

 町中を通り、駅で理趣経をあげて托鉢をし、田舎道に入り、十一番札所に向かう。

 寺の仁王門は古びていた。その下のベンチに、老人が、肩を丸くしつつ座っている。私もそのベンチに腰を下ろした。彼の横顔などから、家族と心が離れてしまったというような寂しさが、私に伝わってくる。ただ、彼は寂しいとは言わないで、流れていく時代を見ながら、「遍路の旅の中の事で、若い人たちの心の隙間を埋めるのに、どうしても伝えたいことがある。」と言う。「私も、まだ何日も旅をしていないが、確かにそう思う。」と言うと、「自分が、家族に言う事は、感情が反目して、役に立たないのだ。」と言う。そして、「あんたら、若い坊さんが、頑張って伝えてくれ。」そう言うと、自分の家の方に歩き始めた。私としては、

[そんなこと言ったて、難しんだから・・・。」

 老人でも、若者でも、自分の心の隙間に気づいて、静かに見つめることが出来れば、御真言を唱えることで、ある程度のものは、だいたい埋まって行くのだけれども、そもそも、エネルギー不足と情がからんでいるもんだから、相当な忍耐がいることになる。ヤレヤレ。私は、

第十一番藤井寺(本尊・薬師如来・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りして、「じいさん、俺も、捨てれば楽になる、情をかかえているよ。」と呟いて、・・・[捨てても楽にならないか。」と言って、歩き始めた。・・・・つづく。