AR8:勉強は、しなくてもいいもの | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

今、

 

「子どもの未来++を創造する」

 

っていう新シリーズを連載しております。

 

新シリーズの後半には、新企画の案内もあるので楽しみにしててくださいね。

 

 

 

この新シリーズは、

 

・親が自己受容(=自分が好きって思えてる)できた

 

・家庭が子どもの安全基地になった(=子どもが安心して過ごせている)

 

っていう次の段階について話をしています。

 

 

 

後半にお知らせする新企画には、誰でも参加してもらえるんですけど、

 

・ある程度、自己受容できてる

 

・ある程度、家庭が子どもの安全基地になっている

 

っていう状態で参加するのがオススメ。

 

 

 

親の自己受容ができてる、家庭が子どもの安全基地になっている、っていう前提で進めていくので、

 

子どもと日々バチバチやり合っていたり、

 

子どもの将来の不安がいっぱいだったり、

 

子どもをコントロールしたい、

 

って思ってる状態で参加すると、ちょっとついていけないかもしれません。

 

 

 

まぁ、それでも、

 

「どうしても参加したい!」

 

っていう場合は、ついていけるかどうかは本人次第なので、何とでもなるんですけどね(笑)

 

 

 

もし、

 

「うちの場合はどうなのかなぁ?」

 

っていう場合は、僕に相談してもらえる機会も作るので、それまでお待ちください。

 

 

 

 

 

こういう「学ぶ機会を絞る」っていうのは、僕にとってもリスクだし(参加者が少なくなるかもしれないからね)、教育の機会均等という意味ではよろしくないのかもしれません。

 

でも、これは「義務教育」の弊害でもあると思うのですが、

 

「みんなが同じ教育を受ける」

 

っていうのは、

 

「みんなの不利益につながる」

 

んじゃないかって思うんですよね。

 

 

 

例えば、難易度が10段階あるとしますよね。

 

学校の授業で、難易度10の内容を話したとします。

 

 

 

レベルが10の子どもはついていけるけど、レベルが3の子どもはついていけません。

 

とはいえ、レベル10の子どもが偉くて、レベル3の子どもがダメなわけでもありません。

 

能力的にはレベル10の子どもが優れてるかもしれないけど、能力の高低は、子ども自身を評価する指標にはなりません。

 

 

 

能力の高低によって、

 

「レベル10の子どもはこの教室にいてもいい」

 

「レベル3の子どもはこの教室にいてはいけない」

 

とはならないし、やっちゃいけない。

 

 

 

なぜなら、それは差別だから。

 

能力格差を使った差別だから、能力の高低によって、子どもへの評価を変えちゃいけない。

 

 

 

この話の問題点は、

 

「能力が異なる子どもを同じ教室に集めちゃったこと」

 

にあります。

 

 

 

人がおもしろいと感じる学習は、

 

「自分が知ってる内容が7割、知らない内容が3割」

 

っていう割合だと言われています。

 

 

 

学力レベル10の子どもにも、

 

学力レベル3の子どもにも、

 

「自分が知ってる内容が7割、知らない内容が3割」

 

ってなるような授業をするのが適してる(=おもしろいと思ってもらえる)わけです。

 

 

 

であれば、レベル10の子どもと、レベル3の子どもに同じ授業をすることはできません。

 

同じ授業をすることができないのに、同じ教室に集めちゃって、同じ授業をすることになってしまった時点で、システム運用の失敗なんです。

 

 

 

なので、大勢に対して授業をする時には、

 

「ここはレベル5の授業をする教室ですよ」

 

って事前に伝えた上で、子ども自身に、その授業に参加するかどうかを選べるようにする必要があります。

 

 

 

レベル3の子どもでも、

 

「レベル10の授業を受けてみたい!」

 

って思うかもしれないよね。

 

 

 

であれば、その授業は受けられるようにしたらいいし、受けてみて本人が、

 

「こりゃダメだわ」

 

ってなったら、途中退室するなり、次回からは別の教室に行くなりするだろうし、

 

「なんとしても、この内容を理解できるようになりたい!」

 

って思えば、それなりの努力をするでしょうし。

 

 

 

「レベル3の子どもだから、きっと分からないだろう」

 

って決め付けるのも良くないし、

 

「レベル3の子どもでも、この内容が分からないといけない」

 

って強制したり、圧力をかけるのも良くない。

 

 

 

大切なことは、

 

「事前に情報を知っていること」

 

「本人の選択に委ねること」

 

です。

 

 

 

 

 

巷でやられてる講座やセミナーって、この2つの原則は守られてるんですよ。

 

事前に内容の告知があって、告知内容を読んで、本人が

 

「おもしろそうだな」

 

「私に(俺に)必要な内容だ」

 

って思って、自分の意思で参加してくる。

 

 

 

参加者は、事前に内容を知った上で参加してくれてる。

 

あとは講師が事前に伝えたような内容で講義をすれば、参加者としても満足しますよね。

 

「そうそう、これが聞きたかった」

 

って。

 

 

 

講師側も、参加者は話を聞きたくて来てくれてるから、話してても楽しい。

 

熱心に話を聞いてくれるというのは、講師としても嬉しいんですよ。

 

 

 

学校の授業だって、

 

「事前に授業内容を伝えておく」

 

「その授業に参加するかどうかは、子ども自身が選べる」

 

っていう方式にすれば、子どもは聞きたくもない話を聞かされなくて済むし、先生側も熱心に授業を受けようという子どもを相手にできるから、授業がやりやすい。

 

 

 

「勉強をしたくない子どもに勉強をさせる」

 

っていうのは、

 

勉強をさせられようとする子どもにとっても、

 

勉強をさせようとする大人にとっても、

 

しんどい結果にしかならない。

 

誰も幸せになりません。

 

 

 

勉強は、やりたくなったタイミングでやるのが、一番良いんです。

 

「じゃあ、勉強をしたくない子どもにはどうしたらいいの?」

 

って思ったりすると思うんですけど、そんなの・・・

 

「思いっきり遊ぼうぜ!!」

 

です(笑)

 

 

 

 

 

 

 

勉強って、

 

「やらなくてもいいもの」

 

です。

 

 

 

「やらなければならないもの」

 

ではないんですよ。

 

 

 

勉強をしなくても生きていける。

 

勉強を必要としない仕事だっていっぱいあるんだから、そういう仕事をしてお金を稼ぐこともできる。

 

また、日本には、いざという時のために生活保護の制度もあるから、最悪、生きていくだけならできる。

 

 

 

勉強をしなくても生きていけるんだから、勉強は生きていくには不要です。

 

言い換えれば、子どもが自分から勉強をするためには、

 

「当たり前のように生きていける」

 

っていう状態が必要なわけです。

 

 

 

だから、親が、

 

「子どもが勉強をしないと、将来生きていけないかもしれない」

 

って心配するのは、

 

「生きていくことは当たり前ではない」

 

って思ってるわけですよね。

 

 

 

となると、

 

「当たり前のように生きていける」

 

ってのがクリアされていないから、

 

「子どもが自分から勉強を始める」

 

にはならないんです。

 

 

 

勉強をしても、腹の足しにはなりません。

 

勉強をしても、お金は増えません。

 

 

 

お腹が膨れるのは、食事をしたらです。

 

お金が増えるのは、仕事をしたらです。

 

 

 

勉強は仕事に活かすことはできる。

 

けど、勉強をしないと仕事ができないわけじゃない。

 

勉強を必要としない仕事もいっぱいあるし、

 

勉強をしても仕事に活かそうとしないと、仕事には繋がりません。

 

 

 

また、勉強をしてる人が必ず仕事をしているか?っていうと、そうでもないですよね。

 

学生でも仕事をしている人もいれば、していない人もいる。

 

 

 

僕らはなんでか、

 

「勉強」

 

 

「仕事」

 

を結び付けて考える傾向にあるんですけど、本来は全くの別物なはずです。

 

 

 

子どもは、親が代わりに仕事をしてくれてるし、食料も調達してきてくれるから、本来なら生き死にのことを心配しなくていいはずなんです。

 

でも、親が

 

「勉強をしないと将来食っていけない」

 

って思ったりして、勉強を生き死にの問題に繋げてしまうと、焦りが出て、心配をし始める。

 

 

 

そうすると、本来、勉強は

 

「しなくてもいいもの」

 

なのに、

 

「しなければならないもの」

 

になります。

 

 

 

繰り返しますが、勉強は「しなくてもいいもの」なんです。

 

勉強をしたら、お腹が膨れるわけでもない。

 

勉強をしなかったら、生きていけないわけでもない。

 

 

 

もう、今にも死にそうな人に、

 

「勉強をしなさい」

 

って言う?

 

言わないよね(笑)

 

 

 

今にも死にそうな人には、どうして死にそうになってるのかは様々ですけど、

 

・病院に連れていく

 

・食事を与える

 

・安全なところに匿う

 

とかですよね。

 

 

 

「勉強をしないと、殺される」

 

みたいな特殊な状況でもない限り、死にそうな人に

 

「勉強しなさい」

 

とはなりません。

 

 

 

勉強は、しなくても生きていける。

 

これは、子どもが子どもでいる間だけじゃなく、子どもが大人になっても同じです。

 

 

 

生きていくためにすることは、食事をすることです。

 

食事をするためのお金が必要なら、仕事をするんです。

 

でも、この飽食の時代、食事をするだけなら、食品ロスを見つけたら、何とか食いつないでいける。

 

 

 

そういう生き方をしたいかどうかは別として、僕が言いたいのは、

 

「少なくとも、自ら死を選ばない限りは、死なない」

 

っていうのが日本という国です。

 

事故とか病気は別よ。

 

 

 

生きていこうという意思があるなら、問題なく生きていけるのが日本なのです。

 

だから、僕ら親が

 

「勉強をしないと、将来生きていけない」

 

みたいに、勉強に絡めて、生き死にの話をするのはおかしいんです。

 

 

 

「女子にもてたいなら、ラーメンを食え」

 

って言ってるくらい、意味不明なことを言ってるんです。

 

 

 

「ラーメン食っても、女子にもてねぇよ」

 

って思うじゃない?笑

 

 

 

「勉強をしなくても、死なねぇよ」

 

なんです。

 

 

 

だから、僕ら親がまず知っとかないといけないのは、

 

「勉強はしなくてもいいものなんだ」

 

ってこと。

 

 

 

勉強は、Mustでやるんじゃない。

 

Wantでやるんです。

 

 

 

 

 

ということは、子どもたちに、

 

「勉強をしなさい!」

 

って言ったり、

 

「学力レベルが様々な子どもを一堂に会して、同じ授業をする」

 

っていうのは、勉強のやり方としては間違ってるんです。

 

 

 

そもそも、義務教育は、

 

「親が子どもに教育を受けさせる義務」

 

だよ、って話で。

 

 

 

子どもが持ってるのは、教育を受ける権利なんだから、

 

「権利を行使したい!」

 

ってなったら、問題なく行使できる・・・

 

すなわち、

 

「勉強をしたい!」

 

ってなったら、問題なく勉強できるようにしてあげたいんです。

 

 

 

「勉強をしたい!ってなっていない子ども」

 

に勉強をさせようとするのは、憲法にも違反しちゃってるのよ。

 

 

 

言ってみれば、コンビニに入ってきた人に対して、

 

「おにぎり買えよ!売れ残ってんだよ!ほら!買えよ!!」

 

ってやってるようなもの。

 

 

 

客が、おにぎりをレジに持ってきて、店員にお金を渡したら、その時点で、

 

「店員(お店)が客におにぎりを渡す義務」

 

が発生する。

 

 

 

逆に言えば、客がおにぎりをレジに持ってきて、店員にお金を渡すまでは、

 

「店員(お店)が客におにぎりを渡す義務」

 

は発生しない。

 

 

 

勉強も、これと同じようなもんで、子どもが

 

「勉強をしたい!」

 

って言って初めて、親に、

 

「子どもに教育を受けさせる義務」

 

が生じるものだと思うんよな。

 

 

 

言い換えれば、

 

「勉強をしたい!」

 

ってなってない子どもに、

 

「子どもに勉強をさせようとする」

 

っていうのは、それって

 

「子どもに教育を受ける義務を負わせている」

 

ようなもんじゃん?

 

 

 

コンビニの店員が、まだ客がレジまでおにぎりを持ってきてないか、おにぎりは持ってきたけど、お金は渡してない状態で、

 

「おにぎり買えよ!売れ残ってんだよ!ほら!買えよ!!」

 

ってやってるのと同じ論理だと思うんよね。

 

 

 

客が権利を行使(=商品をレジに持ってきて、お金を渡す)したら初めて、店員が義務(=客に商品を提供する)が生じる。

 

子どもが権利を行使、すなわち、「勉強をしたい!」って言って初めて、親は「子どもに教育を受けさせる義務」が生じる。

 

 

 

これが「義務教育」の実際よね。

 

 

 

 

 

 

 

ここまでの話をまとめると、

 

・勉強はしてもしなくても生き死にには関係ないので「しなくてもいいもの」

 

・勉強はしたい子どもがすれば良くて、したくない子どもは思いっきり遊ぼう

 

・授業や講座は、あらかじめ内容が伝えられていて、本人が「受けたい!」ってなって受けるもの

 

・義務教育とは、子どもが「勉強をしたい!」って言ってから、親に「子どもに教育を受けさせる義務」が生じるもの

 

でした。

 

 

 

今回の新シリーズの後半で紹介する新企画も、事前に内容をお知らせした状態で、

 

「参加したい!」

 

となった人にだけ参加してもらえるようになっています。

 

 

 

んで、オススメは、

 

・ある程度、自己受容ができてる親

 

・ある程度、家庭が子どもの安全基地にできてる親

 

です。

 

 

 

「うちは参加してもやっていけるんかなぁ」

 

って心配な場合は、個別に相談してもらえる機会も設けます。

 

 

 

その辺りの話も、また追って詳しく話していきます。

 

 

 

今回は、その話に絡めて、学校の教育もこういう感じにしたら、

 

・勉強をしたい子どもが学校に行く

 

・勉強をしたくない子どもは学校に行かない

 

っていう構図になり、子どもにとっても、先生にとっても、とてもやりやすいだろうなぁ、って思うんよね。

 

 

 

その時、親が、この「義務と権利」の話と、

 

「勉強は、生きるためにするものじゃない(=しなくてもいいもの)」

 

っていう話が理解できていたら、

 

「子どもに勉強をさせる(=子どもに勉強をする義務を負わせる)」

 

っていう論理的に間違った選択をして、親、子ども、先生がみんなしんどい思いをする方向にはいかないのになぁ、って思うんですよね。

 

 

 

ほんで、親が「遊びの解放」ができていて、子どもが思いっきり遊べる状態にあれば、その遊びはいずれ「勉強」へと繋がっていく。

 

つまり、

 

「勉強とは、遊びの延長線上にある」

 

っていうことです。

 

 

 

勉強は、

 

「生き死にに直結すること」

 

ではなくて、

 

「遊びの延長線上にあること」

 

なんです。

 

 

 

親として、勉強に対して、この位置づけを認識しておくと、

 

「親がどう関われば、子どもが自分から勉強を始めるのか?」

 

が見えてくると思います。

 

 

 

 

今回は、この辺で。

 

読んでくれてありがとうございました!

 

 

 

それでは、また次回!

 

 

 

 

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「子どもが自分から勉強を始める親のコミュニケーション」