教育の価値とは、
「教育を受けた人がより良い方向に変化していくこと」
だと思うんよな。
素晴らしいコンテンツを提供することじゃない。
コンテンツの素晴らしさよりも、その教育を受けてより良い変化をしていくことの方が価値が高い。
言い換えれば、
「いくらコンテンツが素晴らしくても、人が変わらなければ教育的価値は無い」
ってことだし、
「コンテンツが謎でも、人が変わるなら教育的価値が高い」
っていうこと
人の変化を起こすこと > コンテンツの価値
です。
もちろん、コンテンツの質が高いに越したことはない。
ないんだけど、コンテンツの質が高いからといって、人がより良い方向に変化していくかどうかは別の話。
例えば、僕の好きな話に、ミルトン・エリクソンの石ころの話がある。
ミルトン・エリクソンは心理療法の世界に大きな変革を起こしたセラピストです。
彼は仕事のことで悩んでるクライアントに対して、
「次回のセッションまで、この石を握ったまま過ごしてください」
と言って、石ころを手渡したの。
何か重要そうな石に見えるけど、本当にその辺に転がっている石です。
クライアントは生活でも仕事でも、その石ころを握ってた。
またセッションを受けにきた時にエリクソンは、
「どうでした?」
って尋ねた。
そしたら、クライアントは、
「すごくどうでもいいことを握りしめていたんだな、と気付きました」
って言うわけ。
エリクソンは、その辺に転がってる石ころを握らせただけです。
コンテンツ(=石ころを握る)としては、実にしょーもないよね(笑)
でも、クライアントは、
「どうでもいいことを握り締めていたことに気付いて、それを手放せばいんだと気付いた」
っていう気付きを得たわけよ。
さらに、エリクソンは、
「では、さらに1週間、この石を握って生活してください」
って言います。
クライアントが仕事をしていた時に、同僚が職場の換気をしようと思って窓を開けたんです。
風が吹いて、机の上にあった資料が飛ばされそうになった。
クライアントは、咄嗟に握っていた石ころで資料を押さえて、紙が飛ばされずに済んだ。
そうした体験をして、クライアントは、セッションの時に、
「どうでもいいと思っていたことでも、意外な使い道があるんだと気付きました」
とまたもや新たな気付きを得ました。
繰り返すけど、コンテンツはしょーもないよね?
石ころを握ってるだけなんだから(笑)
でも、そのクライアントは、
「自分がどうでもいいことを握り締めていたから、こんなに上手くいかなかった。
だから、それを手放せばいいんだ」
「どうでもいいと思っていたことにも、意外な使い道があるんだな」
っていう気付きを得たんよ。
これは心理療法のセッションだったけど、教育的価値としても高い。
そのセッションによって、クライアントの気付きと変化があったわけですから。
極論、コンテンツはなんだっていい。
そりゃあ、おもしろい方がいいし、分かりやすい方がいいし、質も高い方がいい。
けれど、コンテンツの良し悪しは本質ではなくて、
「そのコンテンツから何を学び、どう変化していくのか?」
の方が、教育の価値だと思うんだよね。
僕のやってることも教育だからこそ、
ブログであれば、
「読んでる人がどう変わるか?」
だし、講座であれば、
「参加した人やその家族がどう変わるか?」
っていうのが価値になる。
BASEの参加者がどう変わったのかは、ここにまとめてあるので良かったら覗いてみて
動画に出演してる人は一部で、動画に出演してなくても変わった人は他にもたくさんいます。
むしろ、そっちの方が多い。
そして、
「教育の価値は、受けた人がより良く変わること」
であるならば、それは学校教育についても言えます。
学校でどれだけ高尚なことを学ぶかではなく、
どれだけ偉い先生に学ぶかでもなく、
「そこに通う子どもがどう成長したのか?」
に尽きる。
「学習指導要領の通りに教える」
なんてどうでもよくて、
「それを学んで、子どもがどう変わった?」
っていう方が大事。
そこに学校教育の価値がある。
僕が中3の時に通ってた学習塾。
そこの先生はなかなかに過激な先生やってんけど、授業がめちゃくちゃおもしろかったし、やることやってるなら基本的には自由に過ごすことができたんよね。
あの先生の話は、今でもたくさん覚えてる。
ほんで、僕はその塾に通うことで、成績が学年の真ん中くらいからトップにまで上げられたし、
「学校の勉強もおもしろい!!」
って思えた。
やから、少なくとも僕にとってはすごく価値のあった学習塾やったんよなぁ。。。
数学が得意になったのも、その塾に通ってたお陰やね。
塾で学校の勉強のおもしろさに気付いたから、学校教育を受けても、色んなことを吸収できた。
塾と学校の相乗効果をものすごく実感してたな。
それから、もう1つ教育がある。
それが、
「家庭教育」
です。
つまり、親と子どもの関係やね。
これも子どもにとっては教育です。
子育てが子どもが生活する力を高めていくなら、
家庭教育は子どもが学校教育や社会に適応していくための基盤を整えるもの。
「教育」って言うと学校教育のイメージがあるかもしれんけど、家庭教育でやりたいのは、
・自己受容
・他者信頼
・貢献感
などの「共同体感覚の育成」です。
元々、1人で生きていくのが難しかった子どもが、親の協力を得て、家庭の中で生きていけるようになる。
子どもが家庭で当たり前のように生きていけるようになるからこそ、学校などの家庭以外の場所でも生きていきやすくなる。
そういう成長が「家庭教育の価値」になるんじゃないかなと思う。
「親が子どもに何をしてあげられるか」
とかは言ってみれば「コンテンツ」であり、さっきも書いたみたいにどうだっていい。
親はポンコツでもいいの。
もちろん、優秀でもいい。
そこは重要じゃない。
それよりも、親は自分の人生を生きていて、幸せそうで、楽しそうに過ごしてる。
自己受容ができてる、ってこと。
その上で、子どもが直面する困難の1つ1つに対して、親として真剣に向き合い、子どもの人生に協力していく。
そうすることで、子どもは、
「自分は自分のままでいていいんだ」(自己受容)
「自分には味方がいるんだ」(他者信頼)
「自分は無力じゃないんだ」(貢献感)
っていう実感を養っていき、家庭外でも生きていけるようになっていく。
これが、
「家庭教育の価値」
なんだと思う。
言い換えれば、
「家庭教育が果たすべき役割」
とも言えると思う。
学校の勉強は、学校や塾の管轄だから、無理して家庭でやる必要も無いと思うんよな。
学校の先生から、
「家庭でも宿題をやるように言ってください」
って言われることがあるらしいんやけど、それは学校の先生の役割よね。
言わんとやらんような宿題は、苦痛なだけやし、もう別にいいやろ(笑)
それはさておき、
「教育の価値」
っていう観点で考えていくと、
学校教育の価値
家庭教育の価値
が明確に違うことが分かるな。
親は、先生みたいなことをしなくていいし、
先生も、親みたいなことはしなくてもいい。
ある程度、被る部分はあるけど、親の役割と先生の役割は違うからね。
学校教育も、家庭教育も、どっちも子どもを対象としている以上、
「子どもがより良く成長してるかどうか」
が価値になる。
んで、もっと広い意味で言うなら、教育の価値は、
「教育を受けた人がより良く変化すること」
にあるんだ、ってこと。
こうやって考えると、
「教育が何をなすべきなのか」
がよく分かる。
教育に関しては、この記事も読んでみて~!