子どもの成長には時間がかかる | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

7月14日の講演会、1人だけ空きが出ました!

 

申込はこちら

 

━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─

 

『親のためのコミュニケーション講座 -BASE-』3期の一般募集をしています。

 

プレミアムコースは満席となり、今はスタンダードコースのみの受付となります。

 

親のためのコミュニケーション講座 -BASE- 3期 申込ページ

 

締切:6月30日

 

━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─

 

子どもを育てていく上で難しいことの1つが、

 

「親がやるよりも、子どもができるようになるまでの方が時間がかかる」

 

っていうこと。

 

 

 

大抵の場合、親がやっちゃった方が早い。

 

ほぼ間違いなくね。

 

 

 

親がやっちゃった方が早いんだけど、それをやると、子どもが成長する機会が減っちゃうから、遅くなる。

 

目の前の作業をこなす時間を短縮する代わりに、子どもの成長が長期化する。

 

 

 

これを何年も続けていくと、子どもは年齢の割に何もできない、っていう状態が出来上がっちゃう。

 

子どもは、自分が何もできないと、自己肯定感が下がる。

 

 

 

仮に、何もできない自分でもOK!って親が思えたとしても、子どもも同じように思えるかどうか、っていうのは分かんない。

 

子どもがどう感じるのか、っていうことまではコントロールできひんからね。

 

 

 

そりゃ、親としては、子どもの成長をワクワクしたり、子どもが試行錯誤している姿や、チャレンジしている姿って、嬉しいと思うんだよね。

 

でも、いざ、子どもが何かにチャレンジし始めると、居ても立ってもいられなくなって、

 

・アドバイスする

 

・ダメ出しする

 

・代わりにやる

 

とかってやっちゃう。

 

 

 

それで、子どものモチベーションが下がったり、子どものやる機会を奪ってしまったり、子どもが泣き出しちゃったり、子どもが無力感に苛まれたりする。

 

この時、間違いなく、親は、

 

「上手くいったかどうかの結果」

 

に注目しているんだよね。

 

 

 

誰が、どうやるのか、っていうのはあまり重要視していなくって、ひたすらに目の前のことが上手くいくのかどうか、っていうことに"だけ"関心がある状態。

 

この場合、親は、子どもに任せることで、十中八九、上手くいかないことが見えているから、居ても立ってもいられなくなる。

 

「目の前のことが上手くいくかどうか」

 

っていうことだけにしか見ていないのね。

 

 

 

この時、

 

「子どものことを待ちましょう」

 

なんて言うんだけど、僕はこれ、ちょっと違うなぁ、って思うのね。

 

 

 

なんでかっていうと、結局、親の見ているところは変わらないんだから、親にとっては我慢なわけ。

 

我慢はしたくないし、我慢しているんだとすれば、それはいずれどこかで爆発しちゃう。

 

我慢の爆発は、怒りとなったり、諦めに繋がったり、あんまり良くないことに繋がっちゃう。

 

だから、我慢はしたくない。

 

だから、子どものことは基本的には待たない。

 

 

 

なんで我慢しなきゃいけないような状況になるか、っていうと、

 

・親が見ている箇所

 

・関心があるところ

 

・重要視しているところ

 

が「目の前のことが上手くいったかどうか」っていうところなことがポイントなのよ。

 

 

 

そこに関心があるから、親自身が評価するのも、そこなのね。

 

目の前のことが上手くいけばOK。

 

目の前のことが上手くいかなければNG。

 

ってなってる。

 

 

 

この評価を手放すんじゃないんだよ。

 

手放すのも、さっき書いた通り、我慢と一緒。

 

そこばかり見ているんだから、見ている間は、手放したくない、って思うから、手放そうとすると、「手放したくない」って気持ちを我慢することになる。

 

 

 

そうじゃなくって、見ている箇所を変える。

 

関心があるところを変える。

 

重要視しているところを変える。

 

 

 

そして、そこに集中するようにします。

 

どこを見ればいいのか、っていうと、子どもの成長を願うのであれば、

 

「子どもが以前よりも上手くなったかどうか(っていう結果)」

 

に注目したいのね。

 

 

 

例えば、子どもが玉ねぎを切っているとします。

 

親が、

 

「玉ねぎが上手く切れているかどうか」

 

に注目をしちゃうと、子どもが上手く切れないとヤキモキするし、危なっかしい切り方をしていると、子どもから包丁を奪って代わりに切ってあげたくなってくる。

 

 

 

しかし、親が、

 

「子どもが以前よりも上手くなったかどうか」

 

に注目をすると、親の頭の中には、前回以前に子どもが玉ねぎを切っていた姿があるわけ。

 

 

 

以前の子どもの姿と比較しながら、子どもが玉ねぎを切っているのを見ているから、以前よりも上手くなっているところがあれば、指摘できるのね。

 

しかも、その時、

 

「玉ねぎが上手く切られているかどうか(=玉ねぎ主役)」

 

の見方じゃなくて、子どもが主役となる見方だから、子どものことをゆっくりと見守っていられるようになる。

 

 

 

 

誰の言葉だったか忘れたけれど、Twitterでね、

 

「子どもの手元を見るから、気になって、手出し、口出ししちゃう。

 

子どもの顔を見なさい。」

 

っていう言葉があったのね。

 

 

 

これ、そうだよな、って思うの。

 

子どもの手元を見ると、どうしても、目の前のことが上手くできているかどうかが気になるじゃない。

 

そうじゃなくって、子どもの表情や、全体を見ながら、子どもの様子や、成長を見ることに集中して、そこに関心を持つようにする。

 

 

 

そうすると、親自身の中にも、記憶として、子どもの成長が記録されていくから、楽しくなってくると思う。

 

「子どものやることなすことを面白がる」

 

っていう考え方にも繋がってくる。

 

 

 

 

 

 

 

それでも、子どもの様子や、成長に集中できない場合があります。

 

その場合、親の方にメンタルブロックがある可能性があります。

 

 

 

メンタルブロックっていうのは、

 

「~するべき」

 

とか、

 

「~してはいけない」

 

っていう、自分自身では自由にできない心理的な強制力のことを言います。

 

 

 

この場合、考えられるメンタルブロックは、

 

「失敗してはいけない」

 

「上手くやらなければならない」

 

「余計なことをしてはいけない」

 

だね。

 

 

 

親の方に、こういうメンタルブロックがあると、子どもの様子や、成長をジッと見守っていることは難しくなってくる。

 

だって、自分に対する義務、禁止事項があるから、子どもがそれらを破ろうとすると、子どものことが罪人みたいに見えてくる。

 

 

 

子どもを罪人にしたくないから、親が口出し、手出しを始める。

 

でも、それは子どもを守ったんじゃなくて、自分のメンタルブロックを守った、ってこと。

 

 

 

この場合、どうすればいいか、っていうと、

 

・親が失敗しそうなことをして、失敗する(わざとよりも、自然な失敗の方がいい)

 

・親が上手くできなさそうなことをして、下手くそさを全身で体験する

 

・親があえて無駄なこと、余計なことをして、ふざけてみる

 

みたいなことをすればいい。

 

 

 

メンタルブロックは言わば『タブー』だから、それを破り続けてみて、

 

「あ、なんや、全然問題無いやん」

 

っていうことを確認する。

 

 

 

玉ねぎの話で言えば、もはや切らずに鍋に突っ込んでみる、とか(笑)

 

本来、玉ねぎを入れるところをピーマンに変えてみるとか。

 

そもそも、自分が料理を作る慣習ができているのに、それを放棄してみるとか。

 

 

 

メンタルブロックって、言い換えれば、今まで継続的にやり続けてきた習慣でもあります。

 

「そのメンタルブロックを守っていた方が、なんか上手くいく気がする」

 

って信じてきたのね。

 

 

 

でも、子どもが生まれると家庭内に多様性が一気に高まります。

 

そしたら、親の持っているメンタルブロックを子どもは破壊しにかかります。

 

いや、正確に言えば、子どもは自分のやりたいことやっているんやけど、親のメンタルブロックがそれに反応しちゃう、ってことね。

 

 

 

親の今までのやり方 ⇒ メンタルブロックを守る

 

子どもが今やっているやり方 ⇒ メンタルブロックを破壊した先のこと

 

である場合が多いので、子どもがやっているようなことを親もマネしていけばいい。

 

 

 

恥ずかしいし、アホらしいし、無意味な感じがするし、イライラするかもしれないけれど、そこで感情が動いているのであれば、それは親のメンタルブロックが反応している証拠。

 

それでも、やり続けてみる。

 

やり続けてみて、笑ってみて、何か気付いてみたり、学んでみたりする。

 

 

 

「無駄に見えて無駄じゃなかった」

 

「無駄に見えてやっぱり無駄だった」

 

両方あると思うのね。

 

 

 

「有効なものしか選択できない」

 

っていう状態から、

 

「有効なもの、無駄なもの、両方とも自由に選択できる状態で、有効なものを選択する」

 

っていう状態にしていきたいんです。

 

 

 

結局は、同じものを選択するんですけど、その前の状態が、不自由なのと、自由なのとでは、生きやすさが全然違います。

 

「それしか選べなくて、それを選ぶ」

 

「自由に選べて、それを選ぶ」

 

っていうのは全然違うんです。

 

 

 

 

 

子どもができる前は、そのメンタルブロックを持っていても全然問題は無かったと思うんです。

 

自分が上手くやればよかったから。

 

 

 

でも、子どもが生まれたから、自分が上手くやればやるほど、子どもの成長機会が奪ってしまっている、っていうことが起こるようになった。

 

子どもがいなかったら、子どもの成長機会もへったくれもないからね。

 

子どもがいることで、『子どもの成長機会』っていうものも出現するようになった。

 

 

 

子どもがいなかったら、教育なんていらなかった。

 

子どもがいることで、教育というものが出現したわけです。

 

 

 

自分がやるのと、子どもができるようになるのは、考え方も違えば、関わり方も違います。

 

だから、親は子どもができてから、子どもに成長してほしいのであれば、パラダイムシフトを起こす必要がある。

 

 

 

「自分がやった方が早いし、上手い」

 

っていうところから、

 

「なるべく子どもにやってもらって、子どもに早く、上手くできるようになってもらう」

 

みたいな考え方も必要になってくるのね。

 

 

 

そして、その考えを実践できる状態にいることも大事。

 

子どもを待つんじゃなくて、いや、見かけ上は待ってるんやけど、本質的には、親が見ている箇所が違う、ってこと。

 

親が重要視するものを改めて問い直して、変えていくんです。

 

 

 

それで、子どもの成長に関心を持ち、喜べるようになり、子どもの成長機会を大事にするようにしていきたいのね。

 

そしたら、子どもはより成長するだろうし、そんな自分を見て自己肯定感も高まるだろうし、親のやっていることを少しずつ変わりにやってくれたりする。

 

 

 

そこには、少し時間はかかるでしょうけど、時間をかけただけの価値はある、と僕は思っています。