GPF真っ盛りですがこの際マイペースでいきます!大ちゃん記事はちょっと面倒なのでぼちぼち行きます。
少しばかり文章を書くようになって、気になり出したのが、「です・ます調」と「~だ・である調」。前者は「敬体」と言い後者は「常体」って言うって知ってました?ちょっと調べましたが、一言で言っちゃうと敬体と常体を混在させないのが原理原則なんですって!で、好きなブロガーさんらの文章をちょっとばかし見させてもらったところ、見事に常体だけ、敬体だけという方も結構いますね。一方混在させている方も一定数います。初めは迷いながらも「常体」を基本にいこうと思ったんですよ。でもところどころで「です・ます」を使いたくなる、いったいどうしたものか、ちょっと悩んでます。で、混在でもいいかと。恐らく今後も原則破りの混在で言っちゃうと思いますが、基本は「敬体」で書こうかな~、と考えています。「理想のスケーター」という記事を書いた時にほぼ敬体だったと思うのですが、こちらの方がストレスフリーだった気がするのです。でも今書きかけの記事は常体で書いていて、そっちの方が書きやすいんですね。だもので、記事によって使い分けようかな、と考えています。あまり深く考えないこともストレスためない秘訣ですけどね。
さて文章の事を書こうとして思い出したのがもう一つの表題の「的を得る」です。
かなり昔の事ですがまるで掲示板のようなブログさんがありまして、「誰々の~(意見?)は的を得ている」とコメントしたんです。そしたら「的を得ているという日本語はありません」と批判的なコメントが返ってきました。面倒だったんで、「勉強になりました」と返し、その場は収まりましたが、なんとなく悔しかったので「的を得る」について結構調べちゃいましよ。そしてわかったことなんですが。数十年前「的を得る」が誤用であると発表した「三省堂国語辞典」がその誤用説を撤回した事で「的を得る」が市民権を得たのです\(^^)/
いや~その時はなぜ「的を得る」がだめなんだろう?と不思議で不思議で。まさか天下の辞書が誤用とし、さらにそれを撤回する(撤回は2013年12月だそうです)とは!誤用とされた時は「正鵠を射る」(または「正鵠を得る)が正しいとされたようですが、「的を射る」でもよかったらしく、「的を得る」が誤りとされた時から今日に至るまで「的を得る」を使用している方をあまりお見受けしません。たとえ撤回されたとしても一度誤用とされるとその認識で当然来てしまうでしょうし、やはり誤用なのだと思い込むとか、その(撤回された)事実を知っていても誤りだと思われたくないと思って避ける方もいるでしょう。
しかし、ですよ、考えてもみてください。わたしは恐らく小さい頃から「的を得る」を普通に使ってきたのです。誰に否定されることもなくです。文章に書いたかどうかはわかりませんが、先生に間違いだと指摘されたこともありません。もちろん話の中でそれは誤りだと(思っているのに)指摘する人も少ないのかもしれませんが。
私がかかわる会話の中で「的を得る・得ない」は普通に使われてきたと思いますが、会話の中で「的を射ていて~」とか言う人はいまだかつて知りません。三省堂が誤用としたはじまりは1980年代の初め頃らしいですがその頃からそれを撤回した2013年まで国語教育を受けた人は相当な数ですよね。会話はある程度似た年代とすることが多いと思うので私の年代で「的を射る」という人がいなくても、今の若い人たちは案外使っているのかもしれません。「的を得る」が本当の意味で市民権を得たとは言えないのかもしれません。
また三省堂国語辞典をちょっと悪しざまに書いてしまいましたが、それまで多くの辞書に載っていなかった「的を得る」はこの事で辞書に載るようになったらしいです。つまり私の時代の「的を得る」は単純に「話し言葉としては通じる」ということだった、ということなのでしょうか?
まあ日本語に限らす言葉というものは生き物ですから何が正しい、正しくないとは言えないものだとは思います。私も若い子が使う「ら」抜き言葉にいちいち目くじらを立てるのはやめようと改めて思ったりもします。
「的を得る」問題は、はじめはいくつか国語関係の記事やブログ記事もあたりましたが、この問題に精力的に取り組んでいたブロガーさんがいまして、この言葉の経緯や成り立ち、誤用とされた理由とその根拠のおかしさなど、三省堂国語辞典が誤用説は誤りとする以前から図書館などに通って調べていたそうです。私は主にその方が調べてくれたその方の記事を読むだけ。頭が垂れます、そして感謝です。その方の記事を興味があったら是非読んでいただきたいので了解を得られ次第リンクを張りたいと考えております。
(追記 2019年12月12日)
上述したブロガーさんにブログの紹介を快諾いただきました。BIFFの亜空間要塞さんです。ぜひ読んでいただきたいです。追記に当たり私もこの方のブログを一部読み直し、読み込んでいたのですがとても緻密なのにすごくわかりやすいのですね(最近ブログを始めた私としてはちょっと自分の事が恥ずかしくなります)。そしてこの方よりさらに粘り強くこの問題をフォローされているとして、また別のブログさんを紹介していただきました。 BIFFさんによると最近では「的を得る」はすでに誤用ではない、が常識となりつつあり「その後の的を得る」の動向についても書かれているようです。早速見に行きましたが、確かにすごい情報量で用例一つとってもどこどこの何から~としっかり引用元も示されています。
こちらの記事のコメント欄にて2019年12月12日sinobu-19の名前でコメントしたのですが同日の BIFFさんの返信にて、そちらのブログにたどり着けます。興味がありましたらどちらのブログも、さらにその他の主張に関しても是非是非ご覧になってください。
今回この「的を得る問題」をほんの少し取り上げて、「的を得る」という一つの慣用句でさえこれほどの経緯・成り立ち、学説、それも古くは何百年という昔からあると知りました。日本語ってすごいですね(日本語に限らずかもしれませんが、他の言語をよく知らないので~)。私は例えばスケートに関する自分のスタンスとして「美」を基準に考えていますが日本語に関しても同じような考え方です。「美しい」のが正義かな~と。ただし違和感を感じないことも重要だと思っています。「的を得る」が正にそうでした。これが「当を得る」とか「的を射る」とかどこかで言われても(書かれても)今一つピンと来なかったでしょう。
「美しい」に題材を移しますと、例えば、形容詞に「です・ます」を付けるのは美しくない、と言った主張を聞いたことがあります。美しいです、美味しいです、などです。私も違和感を感じた事がありました。ただこれを「です・ます」抜きにすると「うつくしゅうございます」「おいしゅうございます」になってしまうんですよね。後者は料理の鉄人で岸朝子さんがよく言っていましたよね。なんて品があって、きれいな言葉なんだ、と感激したものの自分ではちょっと恥ずかしくて使えません。結局目上の方に対しても「美しいです(ね)」くらいです。
そんなことを考えているとやはり言葉は生き物なのだ、と思えます。ただ、だからと言って文法も何も無視して、何もかも自由でいいということもないと思います。大きな基盤のようなものがあってその上で、「生きている」のではないでしょうか。