あるアメリカ人女性の半生 | たいしの日記

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「ヒロシマ巡礼 バーバラ・レイノルズの生涯」
小谷瑞穂子 1995年筑摩書房

米国人バーバラ・レイノルズは夫に付き従い1951年11月に来日。
夫は広島の原爆被爆者の傷害状態を調査するために派遣された研究員でした。
研究員家族は広島市の研究施設から遠く離れた場所の宿舎で生活していましたが、そこにはスーパーや学校があり、夜はパーティをするなど、米国本国と変わらない生活を楽しめました。
バーバラは米国で知らされていた広島の被爆後6年たった被災の様子を知りたくなり、広島市中心部を訪れました。
そこで見た日本人の敗戦後の住宅と食料に苦労する生活は自分たちとあまりに差がありました。
バーバラは幼児期に母から読んでもらった外国の童話のなかで、日本の双子の子供の物語に特にひかれ、そこに描かれる日本の生活習慣や行事に興味を抱いた思い出がありました。
バーバラは戦災孤児を収容する施設を訪れますと、バーバラが持ちこんだ食料や衣料を与えられた孤児たちは喜んで「長崎の鐘」を歌ってくれました。
バーバラは宿舎の米国人の子供と収容施設の日本の子供たちをいっしょに遊ばせ、お互いの施設を行き来するように図りました。
バーバラには日本人への親しみと憐れみの気持ちがその後の行動力の元にあったように思われます。
その後バーバラは夫とともに夫の作ったヨットで核実験反対を訴える航海をしたり、娘と平和公園で断食をして核兵器廃絶の著名を呼びかけたりし、ついには被爆者代表を連れて欧米へ平和巡礼の講演旅行をするなどの行動へと進んでいきました。
1968年に米国に帰国してからも、日本から持参した広島・長崎の原爆被害の資料をいくつかの大学に平和研究に役立ててもらうよう寄贈をもちかけ、全米を支援者とともに原爆被害の実態を教え広める講演旅行をしたりしました。
これらの貢献によって、広島市から名誉市民章を授与されました。
米ソの冷戦終結が宣言された1989年の翌年、バーバラは自分のかかわった平和運動の歴史を整理執筆している日々のなかで75歳で急死しました。
広島平和公園にはバーバラが生前にたびたび口にした「わたしも被爆者」という言葉を刻んだ碑が立っています。
この本はバーバラを取材した作者が、バーバラや支援関係者からの協力によって書かれたものですが、出版される前にバーバラは亡くなりました。
今年はバーバラ死後29年経ちますが、この本によって伝わってくることは、原爆被爆者のあまりに痛ましい姿と苦しみの日々に、心から同情しその苦しみを無くしたいという純真な女性の思いが、それを世界中に伝えようという行動につながったものだということです。
国籍や人種を越えて、人の悲しみ、痛みに人間としてしっかり付き添ってあげたいという気持ちこそ、誰からも始められる平和への一歩であり、人類が進むべき方向であると思います。
それはバーバラから始まりましたが、いつの時代でも、生きる人ひとりひとりから始められるもののはずです。