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♯39 西畑(粟島) → 小室(海士) 前田(対馬) 野原(御所浦)

昨日、AMANAラジオデビューしちゃいました。


http://www.ama-sns.net/amana/


いや~、楽しかった♪




久しぶりに、小室君、青山君と話ができて、収録が終わったのが、24時前だったけど、


興奮冷めやらぬ状態で、1時まで寝付けませんでした。




アイランダーに向けて、できたら毎回、各島の方々を呼んで、収録しちゃおうって企画が、


100回目を迎えた前回、企画されたみたいで、101回目の今回、西畑が、小室君とのつながりで、呼ばれちゃったというわけです。


(詳しくは、バックナンバーで100回目を聞いてみてください)





で、その際のお話しで、「海士と粟島は似てる風習が多い」って話があったけど、


たぶん、北前船の影響なんだろうね。



北前船の西回り航路の図。


http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/11275_I1_12.html



酒田から出た船が、粟島で風待ちをしたって話があるので、いろんなものを運んで、いろんなものが伝わっていったんだろうね~。



こんな風に、遠い昔に思いを馳せるなんてことができたのも、海士のお二方と一緒にお話ができたからこそ。





粟島のPR云々は置いといて、本当に楽しいコミュニケーションができて、よかったです。




これが継続されて、まず、アイランダーで、この企画の集まりみたいなのができたら、また一層面白いなぁなんて、収録後の会話ではされてたので、ぜひぜひ、そんな思惑もありつつ、ぜひぜひ、前田さん、野原さんには、出演してもらえたらと思います!!




(対馬や、御所浦なんて、粟島に比べたら、断然海士に近いんだから、お客さんだって、「おっ!!行ってみようかな?」って思うんじゃないかな?)






と、そんな感じで、AMANAラジオもよろしく!!






それで、野原さん。


御所浦の海上タクシーは、内海だからこそ、なんだろうね!!


粟島でも、夏の間は、漁師さんが対岸まで漁船で行ったり、カヌーで15km、わたってきたりするお客さんもいるけど、それが「海上タクシー」にまではならないんだよね。残念ながら。



もちろん、需要がないわけではないんだろうけど。



ちょっと風が吹くと、漁船はでられなくなっちゃうしね。





引き渡し、なんて、本当にのんびりだね!!


今、それができないことの方が、人間が機械のように動く仕組みの象徴みたいで、もしかしたら、問題なのかもしれないね。


そういうところでの、「危険回避」と「ある程度の融通の利く状態」。


その辺がグレーな方が、たぶん、心地よく生きられるんだろうにね。


(もちろん、このあたりのことは、賛否両論あるだろうし、仕方ないのかもしれないけれど)






小室君


昔話、すごいね!!


このブログを書きながら聞いてるからだけど、何言ってるのかさっぱりわからないよ!!(笑)




粟島の、ばあちゃんの話し言葉も、初めのうち、「ハングル」に聞こえたけど、


まさにそんな感じ!!




未だに、ばあちゃんたちの会話、すべては聞き取れないもんね。。。







さてさて、余談みたいなブログになりました。



粟島も、暑いです!


海水浴客が、たくさん来ています。


(ラジオでも言ったけど、この1か月で、1年のうちの4割(1万人)のお客さんが来ます!)


島の方、飛んでまわってます。


僕も、なんだか落ち着きません。。。。


お客さんに挨拶しても、返ってこない(あるいは、目も合わせようとしない)ことが多いしね。残念。。。





早く、静かな粟島に戻ってほしいと思いつつ、でも、民宿の皆さまには、書き入れ時だから、頑張ってほしい、


そんな複雑な心境の、西畑でした。





では、また。



ニシハタ

♯38 小室(海士)→野原(御所浦) 西畑(粟島) 前田(対馬)

野原さん、
西畑さん、前田さんも返事が遅くなりました。


海士町の小室です。


海上タクシーのことを、隠岐の島海士町では「たてぶね」と呼びます。
それも基本海士に来てから知ったのですが、、(恥ずかしい話で)

今日中に島に戻らなければならない場合や離島間の移動に使われます。
また釣り客を岩場へ渡したり生活面の移動ではないところでも、「たてぶね」は利用されたりしていると思います。
私が認識している範囲ではほぼイコールです。呼び名だけの違いだと思いますが、島の方では使い分けているかもしれません。


というのも、地図を見ていただけたら分かるように、中ノ島(海士町)、西ノ島、知夫里島の3島の総称名である『島前』では、各島の距離も近く内航船が頻繁に行き来しています。高校生が通学で利用したりなど、島前3島間の移動は日常的な風景です。(島前3島間は300円ずつなんです。)
『たてぶね』を利用するという頻度も島前と島後ではずいぶん違う印象です。終電ではなく、最終の内航船の時間(夜10時ごろ)を気にしたりするのもよく見られます。
それに間に合わないような予定がある場合、「たてぶね」で帰ろうという風になるわけです。あと珍しいケースですが、島後の隠岐空港と島前の連絡で時間が合わなくて、たてぶねを利用するというのもあります。
海上タクシーの文化が根強いのは内海の離島のみかなとか思っていたんですが、その度合いは違ってもあるようです。




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あと本土との「たてぶね」での行き来も無くはないと思いますが、非常にまれだと思います。
御所浦の海上タクシーは、その主目的が九州本土側との移動だと思うので、その点は生活での利用と言っても、目的は海士町の方が限定的かもしれません。海上タクシーの利用頻度というのは、なんといっても本土との距離感が決定的に影響するんじゃないかなと思います。





さて、海上タクシーとは少し話が変わりますが、
先日海士の「民話」の取材に同行しました。

民話とは、「日本昔ばなし」みたいなイメージの
祖父や祖母、父や母が、孫や子を寝かしつけるために、また昔からの言い伝えのように語りつがれていたお話のようです。
方言やその独特の言い回しが、なんとも言えずグッとくるものがあって、
これは何かしないとと思い、お話していただいた方に方言を添削していただきながら、簡単な動画を作りました。まず3本をアップします。




『猿の生き肝』





『瓜姫と天邪鬼』






『蕎麦の赤脚』



これは以下の音源を元に編集しました。
●語り部 浜谷包房氏
●取材日時 2010年6月19日、浜谷氏自宅(海士町)
●取材 藤井和子「妖怪通信http://www.rg-youkai.com」の取材
●同席者 小室賢治、小室勇樹





私も子供頃、「蜜柑太郎」という創作の民話を親から聞いていた記憶があります。
桃太郎を蜜柑に変えただけのいい加減なやつですが、
今でも覚えています。

今回も聞き取りをした場所が、大きな文化会館とかではなく、語り部の方のご自宅でお聞きしたので、
間合いというのか、表情もすべてが直接的で、ほんとに孫や子供のような気分で横で座ってて、なんと言うのか、時間軸が違ってくるようなそんな魅力がありました。

●ここでちょっとした海士弁講座です。
よくお話の中ででてくるのが

だ→私という意味です。
(例)だも爺さんと出てくるけんな。→私も爺さんと出てきますから。

ふかってる→赤くなってきているという意味です。 





2010.7.30
オムロ




♯37 野原(御所浦)→ 小室(海士) 西畑(粟島) 前田(対馬)

みなさま

オムロ君の話をうけ、ちょっとした小話ていどですが。
御所浦は内海の不知火海の島ですので色々な航路があります。
その中で、今はないのですが、昔は水俣→御所浦→本渡という航路がありました。
水俣に勤めた方などは、水俣→御所浦→本渡の航路の船に乗って御所浦へ戻ることも多かったようです。
また、この航路ではなくて、水俣→本渡と、御所浦に寄らない航路もありました。その船はきりしま丸という船だったそうです。
御所浦へ戻りたい、でも御所浦経由の船のタイミングがあわない!
御所浦から水俣まで、船で親族友人にに御所浦から迎えに来てもらうのは遠すぎます。
そんな時、きりしま丸に頼めば、御所浦付近の沖合いで御所浦からの迎えの船に乗り換えさせてもらえたと言います。
一度停船し、そこまで迎えに来ている船に引き渡すわけですが、航路の途中とはいえ、のんびりしたものです。
30年ほど前の話です。

ところで、御所浦の海上交通では海上タクシーが独特なのではないかと思っています。
観光利用というよりは、島民の重要な交通手段としての普段づかい。
具体的には御所浦の方は棚底港周辺に車を置いている方が多く、海上タクシー(御所浦港より2000円)で棚底港へ行って、車で中心市街地や熊本市内へ出かけるといった使い方などです。

瀬戸内のほうでは同じようなイメージで使われているような話も聞きますが
対馬、粟島、隠岐では、どうでしょう?

20107/3
ノハラ


$島つなぐ手紙 島人ブログ-御所浦周辺マップ

♯36 小室(海士)→野原(御所浦) 西畑(粟島) 前田(対馬)

小室です。

西畑さん、前田さん、野原さん。

こんばんは。


今日は隠岐の昔について、ちょっと書きます。

島の方に昔話を伺ったものから、興味が出て簡単にまとめたものです。


隠岐の航路の昔についてです。


はじめにお話を伺った島の方に、「チョッコウ」と「カッコウ」があったでしょと言われたときに漢字も思い浮かばず???だったのですが、話を聞いていくうちに、

それは直航と各港というダイヤがあったんだということに繋がりました。


それは電車でいう各駅と急行と近いもので、昭和十年頃の話、隠岐四島の様々な集落の港に隠岐汽船(その当時は隠岐丸という船)が着いていていました。


分かりにくいと思いますが、直航は(松江-境-美保関-崎-知々井-西郷)の往復ルートで、各港は(西郷-都戸・都万-菱浦-別府-浦郷-知夫-美保関-境-松江)の往復ルートです。


のちに呼称も乙線と甲線という風に変わって、昭和四十三年には、都万・知々井・崎の集落の寄航が廃止され、またその後は一つの島に一つの寄港地というように集約化もされていきました。


同時に「かよいせん」と呼ばれる大型船へのはしけも、フェリーが着岸できる大型の港へ変化していくにしたがって、その姿を消していって、大勢の人や大きな荷物を櫓こぎの舟に載せて、別れを惜しむ姿なんていうのはもちろん見られなくなります。

この「かよいせん」には写真があるのですが、このはしけにも別れを惜しむように紙テープを張って見送りをしている姿が印象的な写真です。


大型のフェリーが着くようになってから、高速船のマリンスターという船ができ日帰りが可能になったり、超高速船レインボーができ約一時間で本土とを結ぶようになったりしました。


自分の子供のとき、ちょうどこのマリンスターとレインボーとが交代する時期で、

高速船が超高速船になり、

これがまた数年したら、

超超高速船やスーパー高速船なんてものも出てくるのかな、なんていうことを

子供の会話でしていた記憶があります。


航路というのは、島においては昔も今もなくてはならないものです。

だからこそ、そこに魅力的な部分が含まれるんだと思います。


変な意見ですが、島よってやその船やルートによってちょっとしたローカルルールがあったりしませんか?私はそれが楽しい部分だったりします。




おむろ





♯35 前田(対馬)→野原(御所浦) 小室(海士) 西畑(粟島)

小室さん、西畑さん、ご無沙汰しております。久々に対馬から手紙を書きます。


そして、野原さん、お久しぶりです。今、御所浦島にいらっしゃるのですね。


まず、西畑さんへ。


立ち話は重要だね~。私は、田んぼを借りて稲作農業(無農薬で!)をやりはじめて、立ち話する機会が増えました(野良仕事がスムーズに行かないほどに)。西畑くんが言うように親密感がぐっと高まるし、島の人たちの口コミのすごさからすると、歩く情報源・発信源だよね。


手作り公民館結婚式、いやー羨ましい!! 写真を見ると、西畑くんも奥様も島の人たちも素晴らしい笑顔で、こっちも幸せになります。島の人たちの5分の1が参加するなんて、西畑くんは粟島の人たちに本当に愛されているんだね。


私はというと、H22.2.22 PM:2:22に入籍。結婚式や披露宴はまだなのですが(奥さんの実家がある東北と関東、対馬の3回やります・・・。対馬では実行委員会形式で手作りの宴を催してもらえそうな予定)、今月下旬の東北での披露宴を前に、元職場の仲間たちからサプライズなプレゼントがありました。



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サプライズプレゼント。


私は、5年前に対馬に移り住み、絶滅の危機に瀕するツシマヤマネコ保護に関わる仕事をしていました。通称「ヤマネコセンター」(対馬野生生物保護センター)と呼ばれる施設に勤務していたのですが、その職場の同僚・後輩たちからのサプライズ。ヤマネコがマナヅルに載ってやってくるという実にハッピーな大漁旗です。海にいるのはウミネコですが、ヤマネコも海とは関係が無いわけではありません。



もともとヤマネコに誘われて対馬に移り住み、嫁さんも島に呼んでしまった私からすると、一生の宝ものです。この大漁旗を見ながら、「生態系の頂点に立つツシマヤマネコが安心して暮らせる対馬は、森と里と海が豊かな証拠であり、対馬の人にとっても様々なめぐみをもたらす」という信念のもと、夫婦ともども、ヤマネコ保全をライフワークに、対馬なりの島づくりに頑張ろう!と思った次第です。



小室さんへ。


伝馬船ではないのですが、対馬には、佐護地区という私が住んでいるところに「材木舟」というのがあります。ゼーモクと呼ぶのですが、かつて藻刈に使われていたので「藻刈舟」(もかりぶね)とも呼ばれています。佐護地区は、日本で最も韓国に近いところにある集落なのですが(肉眼でプサンの夜景や花火大会を鑑賞できるほど)、対馬ではこの地区一帯にしかゼーモク舟はなく、しかも韓国の南部には同じような形態の舟があります。ずいぶん前に済州島に行ったとき、確かに同じような櫓こぎ舟を見た記憶があります。


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ゼーモク舟。


舟の作りは写真の通り大変シンプルで、骨組みの芯を抜けば、すぐにばらすことが出来きます。残念ながら、今は海に浮かぶことはなく、陸でホコリをかぶって展示されています。私としては、日本の櫓こぎ舟文化のルーツを考えるには重要なものだと思いますし、まだゼーモク舟に乗られていた方々もご健在なので、今のうちにしっかりと受け継ぐべき文化だと思っています。


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済州島で見た櫓こぎ舟

野原さんへ。



化石を切り出す作業って何だって感じですよ、本当。興味そそられます。ブログも早速拝見。すばらしデザインと絵ですね。野原さんが島にいらっしゃる間、いろんなことを、いろんなところにアートされるのでしょうね。島に実際住まわれてみると、思考や画風、タッチに変化はあるものなのでしょうか。


島のご馳走はすごいですよね。私は独身の間はいろんな家庭でお腹がはちきれるぐらいにご馳走をいただきました。思えば2度夕飯を食べることも少なからずあり、おかげさまで、西表島に暮らしていた頃から通算すると、体重が20kgぐらい増えました・・・。