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ずーっと前々から「信仰」っていったい何だろう?って考えています。
その答えみたいなものは、まだまだ見つからなくて、グルグルとぼんやりした考えが永遠に巡って巡って疲れて諦めて寝るってことの繰り返しです( ´∀` )

いやもっと真剣に向き合わないといけないのですが、まだまだ未熟者ゆえそこの域に至るのはこの人生が終わるか終わった後、来世か来来世か見当もつきません。。。

 

でも「信仰」って、多分なんですけど、「神様・仏様を信じて心豊かにする生活」っていうことだと、思うんですけど、それだと「信心」と「信仰」ってどう違うのかな?って思ったり、あと根本的に「神様・仏様」を「信じる」ってどういう「心の状態」なんかな?思ったり、なかなかストンと得心するような答えが見つかりません。。。でも、おそらく、多分、なんとなく、「この答え」のヒントは「毎日の生活の中」にあるとは思ってます。。。

 

んでもって「信じる」ってことを別の視点で考えてみたんです。

「人間同士が信じ合う」こと。

これは、「信頼」とか「信用」って、言われていますよね?

 

んで、信用は、相手の過去(実績)を担保にして、信じること。

んで、信頼は、相手の未来(可能性)を担保にして、信じること。

だと考えています。

 

そいで、人同士が「信じる」ってことは、「感謝と尊敬の前貸しと前借り」なんじゃないかなぁ~ってかんがえてるんです。

天理教の考え方だと、世界中の人間は「兄弟姉妹」で他人ではない。神様を同じ親とした縁なる者同士なんだよって教えてもらってます。だから、対等でお互いに過去や未来を担保にして、気持ち(感謝と尊敬)をやり取りしているんだと思うんです。

 

でも、神様は親で、人間は子供って考えるときに、この「信じる」の関係性ではないと思うんですが、じゃあそれがどんな信頼関係か信用関係か分からないんです。

 

で、その関係性の上で、毎日の生活を送ることって何だろうって考えていたんですよね。。。

そしたら、何となく「神様・仏様の教えを使って、1日の86400秒を1秒でも多く喜びや感謝に変えようとする意識を持った人」が信仰者なんじゃないかなって思ったんです。

 

ここにハッキリとした定義はなくて、なんとなく閃いた感じだったのですが、今の自分的には、スッキリした「答え」でした。

 

「信仰とは何か?」「信仰者とは何か?」この答えは、一人ひとり違うと思います。

また何年後かには、自分の中でも「答え」は、変わっていると思います。

 

だけど、「現在」の自分にとって、信仰者とは「神様・仏様の教えを使って、1日の86400秒を1秒でも多く喜びや感謝に変えようとする意識を持った人」って「答え」は大事なモノのような気がしたので、今日はこのことについてブログを書いてみました。

 

本日も拙い文章に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございます!

皆様の今日、明日、明後日が喜び多き日常をなりますように祈っております。

 

ソンナ訳で、今日はmiwaさんの「ヒカリへ」って曲が好きです。明るく前向きな気持ちにしてくれる曲です。

もし良かったらご視聴下さい。