内臓から、こころを整える! 内臓心理学カウンセリング

内臓から、こころを整える! 内臓心理学カウンセリング

わたしたちの「こころ」は、「内臓」で出来ている!?東洋医学、陰陽五行思想を駆使した、ちょっと変わった「内臓心理学」をお届けします♪

タオと性と東洋医学について色々と語るカウンセラーです(。-`ω-)お役に立てば幸いです!

こんにちは

のりたかです(*´▽`*)

 

 

人生、何かと迷うことが多々あります。

 

私もこの仕事をしてからもよく迷います。

 

 

自由だからこそ、どっちに行けばいいのか。

 

こっちは正しい道なのか。

 

迷うことが日々あります。

 

 

そんな時、身体はいつも教えてくれます。

 

そっちじゃないよ、とか。

 

こっちに行こうよ、と。

 

 

その伝え方は痛みだったり、辛さだったり。

 

「病気」って呼ばれるものだったり。

 

 

もちろん、病気は辛いし痛いから、治すのは大事。

 

病院に行くことも、薬を飲むことも大切なこと。

 

 

だけど、その奥にある「身体からの手紙」

 

ちゃんとキャッチしてあげたいなと思いました。

 

 

この間から出ていた不整脈も身体の声だったようで。

 

「さぁ、全部まっさらにして、何がしたい?」

 

そう私に問いかけてくれていたようです。

 

 

去年はこの不整脈を「何としても消してやる!!」って

 

頑張ってましたが、今回は「受け入れてみよう」と思って

 

 

治療はするんだけど、「身体は何を伝えたいのかな?」って

 

そう考えてました。

 

 

全部まっさらにして、全部捨てて。

 

さぁ君は何がしたいのか。

 

 

そうやって自分に聴いてみると、東洋医学や老子の勉強をしたい。

 

そんなことを感じました。

 

 

そうしてこの一週間、老子の原文の書き下しと訳をして

 

ノート一冊全部が埋まり、ああ楽しかった(#^^#)

 

すると「じゃあ、次はこれがしたい」という思いが出てきて。

 

 

気が付くと胸の鼓動は正常になってました。

 

 

思い返すと、鬱が治った時もそうだったし、東洋医学をまたやろうと思った時も、全部「自分の中」に答えがあって。

 

 

迷った時、行くべき「道」が自分の中にあって。

 

 

ああ、ちゃんと自分の中に道があるんだなぁ。

 

迷わないで済むように、ちゃんとできてるんだなぁ。

 

そう感じます。

 

 

みんなちゃんと、自分の中に道があって。

 

そこに気付けるように、身体と心が声を上げてくれる。

 

伝え方は病気だったり、何か嫌なことだったりするけど。

 

 

伝え方は下手くそだけど、でも一番気が付く方法で。

 

 

その声に気付いてあげて、自分の中の道を歩んで行ければ。

 

少し人生は変わるのかもしれないですね。

 

変わるというより、「あるべきところに戻る」のかも。

 

 

老子の訳をしていて、「命」という言葉が何回か出てきました。

 

「生命」の意味もあるし、「命じる」の意味もあります。

 

 

そのほかに「名づける」という意味もありました。

 

 

なるほど。

 

私たちの命は生まれと同時に「名」がついて。

 

それは単に個人の識別のためではなく、そこに「生きる道」も込められていて。

 

 

私の生きる道「使命」は、私の「氏名」に込められているのかなと。

 

 

もちろん、それは親が「こうなってほしい」とつけた名ではなく。

 

 

もっと、なんというか「運命」というのか。

 

こっちの場合は「宿命」のほうが良いのかな?

 

「天命」というのがいいかな。

 

 

「中庸」という中国の古代哲学書にある言葉ですが。

 

「天の命じるを性といい、性に従うを道という」

 

天命、天性に従うもまた「道」なのだなぁと。

 

 

話がごちゃっとしちゃった(;'∀')

 

自分の中にちゃんと道がある。

 

その道に気付けば大丈夫。

 

 

その道に気付くのは、全部手放して、まっさらにして

 

「さぁ、私は何がしたい?」と、そう問えた時に。

 

きっと明るく輝く場所がある。

 

 

自分の中の道(Tao)が教えてくれた気がした、ここ最近でした。

 

 

 

あとがき

 

 

うふふ( *´艸`)

 

ふと思ったんですが、私は「道」にご縁があるようで。

 

老子の道(Tao)もそうだけど

 

 

このブログの名前、最初は「シルバーガーデン」だったんです。

 

 

 

だから連絡先メアドも「silvergarden」なんです。

 

 

「君の銀の庭」という曲の歌詞が好きで、そのタイトルから名づけました。

 

その歌詞の感銘を受けたフレーズが

 

 

道に迷ったあの子が今日も

一番早く帰り着いた

 

正しさよりも明るい場所を

見つけながら走ればいいんだね

(karafina/君の銀の庭)

 

 

私がブログに「シルバーガーデン」と名付けた時、このブログは「道」を伝える宿命を受けたのかもね。

 

 

過去記事を読んでみると、その締めくくりは

 

一緒に自分の人生を、少し楽しめる道を探して生きましょう(^^♪

 

でした(笑)

 

 

こんにちは

のりたかです(*´▽`*)

 

 

今日は雨で明日からぐっと寒くなるそうな。

 

皆さんお気を付けくださいね!

 

 

さて、東洋医学の究極は「徳」にあると睨んだ私は、その徳のことを勉強すべく「老子道徳経」の原文書き写しをしています。

 

「道(Tao)」のほうはよく勉強したんだけど、徳のほうはあまり勉強しなかったので、これを機にやってみようかなと。

 

 

老子の原文の中にですね、私たち日本人にも身近な言葉がありましたよ。

 

 

大器晩成

 

 

これ、実は「老子」が元の言葉なんです。

 

明日使える雑学です( *´艸`)

 

 

これの意味は皆さんご存じかと思います。

 

本当にすごい人は大成するのが遅い。

 

大物は遅れて頭角を出す。

 

「あの人は大器晩成タイプの人だ」という使い方ですね。

 

 

そういう意味じゃ、先日史上最年少で4冠となった将棋の藤井聡太は、若くして頭角を出しているので「大器晩成タイプ」とは言わないですね。

 

「大谷翔平は大器晩成だ」とも言わないでしょうね。

 

 

 

ところが

 

 

老子の原文を読んでますと、この「大器晩成」という言葉。

 

本当は使い方が間違ってるんじゃないか?

 

間違った訳され方をしたんじゃないか?

 

 

そんな疑問が浮かんだんですね。

 

まぁ、加藤常賢教授の「老子原義の研究」の受け売りですけどね(;^ω^)

 

 

 

老子の原文を前後含めて抜き出しますね。

 

 

大方無隅 大器晩成

 

大音希聲 大象無形

 

 

2つめに「大器晩成」が出てきます。

 

ここなんですけどね、訳しますと

 

 

大方無隅

大きな箱には隅がなく

 

大器晩成

大きな器は完成が遅く

 

大音希聲

大きな音は耳には聞こえず

 

大象無形

大きな像は形が見えない

 

 

こんな意味になるんですね。

 

大きな器は完成が遅いのと同じで、立派な人物は後から評価される。

 

大器晩成という言葉が生まれたわけです。

 

 

が、これは、ちょっと老子っぽくない。

 

というかリズムが悪い。

 

 

大きな箱は隅が「無い」

 

大きな器は完成が「遅い」

 

大きな音は耳に聞こえ「ない」

 

大きな像は形が見え「ない」

 

 

「無隅」「希聲」「無形」は全部「否定」をしているのに、「晩成」だけ「肯定」になってる。

 

「遅い」けど「完成する」と肯定しちゃってる。

 

 

これは文章の「リズム」が心地いい老子では、ちょっとおかしい。

 

「〇」と「×」を対比したり、「×」「×」「×」と続けて表現をしたりは多いけど、「×」「〇」「×」「×」なんて書き方はあまりない。

 

 

もし前後のリズムで言うならば「大きな器は完成しない」という意味になります。

 

 

えっ!?

 

大器晩成って「一生完成しない」の意味だったの!?

 

「あの人は大器晩成タイプ」は、「あの人は一生芽が出ない」の意味なのか!?

 

 

結論から言うと、大器晩成は「一生完成しない」の意味なのだと、私は思ってます。

 

そのほうが老子の原文を読む上では筋が通ってます。

 

 

と言ってもこれはネガティブな意味ではないですけどね。

 

 

老子の話には「器」ってよく出てきます。

 

其の無に当たりて器の用有り。(11章)

 

器は空間があるからこそ、器の役目を果たせる。

 

 

さらに、老子のいう「器」は

 

大成は欠くるが如くなれども、其の用は弊かず。(45章)

 

大きな器は欠けているようにみえるが、その働きが悪くなることはない。

 

 

そう、老子の言う「器」って、私たちの思う「完成」とは違うんです。

 

 

私たちの思う完成は、当然お店に売ってるようなもので、「欠けてるところはない」のが当然です。

 

欠けてたら不良品ですもんね。

 

 

でも、老子の言う器は「どこか欠けているように見える」もの。

 

その状態こそが良い状態。

 

曲がっていれば、すなわち完全。

 

 

これには二重の意味があるだろうけど、一つは「人間」の意味。

 

 

人間には欠点があります。

 

まさに「欠けているところ」です。

 

でも、徳の生き方をするものは「欠点を欠点と認めているから」こそ、欠点がないと老子は言います。

 

自分で認めているから、もはや欠点ではない。

 

 

逆に言うと「欠けてるところがどこにもない」ように見える時、その裏には「欠点を隠す」がある。

 

欠点があるのに、内容に隠すことを老子は「病」とまで言ってます。

 

「知ったか」はするな、と。

 

 

なので、大器晩成というのは、大きな意味では「自分の〇も×もよく知ってる」人のことと言えそう。

 

そしてそれを隠して「いや出来ますけど?」って言わない人でもある。

 

 

私はニワカではありますが、将棋は結構好きで。

 

藤井君の活躍もよくネットで追ってます。

 

 

藤井君の「将棋」は、いつか完成するでしょうか。

 

たぶんしないでしょう。

 

 

一生「将棋って面白いなぁ、また新しい発見があったなぁ」って、そうやって将棋をやっていくんじゃないかなと。

 

だって藤井君、将棋の神様がいたら「一局手合わせ願いたい」って言ってるし。

 

 

完成した、たどり着いたと思ったら、また新しい発見があって。

 

新しい道が出来て。

 

 

それを楽しいな、面白いな、すごいなと。

 

そう思いながら歩き続ける人こそ「大器晩成」なのではないかな。

 

だから、藤井聡太君も、大谷翔平君も、大器晩成なのではないだろうか?

 

 

そうして歩いてきた足跡に、周囲が勝手に「評価」をつけるけど、歩いてる本人はあまり気にしないかもね。

 

 

私も、一生完成しない「答え」を求め続けて、歩いていきたいものです。

 

 

 

「欠けてる器」のもう一つの意味。

 

これは……今日は書かないでおこうかな。

 

ご飯の時間だし。

 

 

 

明日から寒さがやばいです!

 

皆さん暖かくして、養生してくださいね(#^^#)

 

こんにちは!

のりたかです(*´▽`*)

 

 

東洋医学もTao思想も、その根底には「陰陽」という考え方があります。

 

陰陽という言葉自体は、皆さんも普段耳にすることがあるかと思います。

 

 

「陽気な人」は明るく元気で社交的なイメージです。

 

「陰気な人」は暗くて静かで内向的なイメージです。

 

 

「あなたは陰気な人ですね」は、きっと誉め言葉にはなりませんが、陰陽思想における陰陽は「陽が良くて陰が悪い」という考えはありません。

 

どちらも大事。

 

バランスが大事です。

 

 

明るく元気な人は素敵かもしれませんが、度が過ぎれば「うるさい」になります。

 

図書館や映画館でうるさい人は「陽気」とは言いません。

 

 

陰は暗くて静かなものですが、だからこそ「リラックス」がしやすいです。

 

夜もさんさんとお日様の光が部屋に入っていたら、ちょっと寝づらいですよね。

 

 

そんな感じで、陰陽は「良い悪い」ではなく、その時々に適応したバランスが大事ということです。

 

 

私たちの身の回りは陰と陽で出来ています。

 

「一日」も陰と陽で出来ています。

 

 

夜明けから日中は陽がどんどん強くなってゆく、「陽中の陽」です。

 

お昼間から日暮れは、徐々に陽が弱くなってくる「陽中の陰」です。

 

日暮れから夜中はどんどん陰が強くなるので「陰中の陰」です。

 

夜中から日の出は、徐々に陰が弱くなるので「陰中の陽」です。

 

 

こんな感じで、陰陽は「陰陽くっきり」わけられない。

 

陰の中にも陽があり、陽の中にも陰がある。

 

そんな仕組みで出来ています。

 

 

これは皆さんご存じ「太極図」にも表れています。

 

 

白いところに黒い点、これが「陽中の陰」

 

黒いところに白い点、これが「陰中の陽」です。

 

 

「あらゆるものは陰と陽で出来ている」というのが陰陽の法則ですが、厳密にいうと「陽も陰と陽で出来ている」し「陰も陰と陽で出来ている」という感じです。

 

 

陰陽の種類に関して、別の分け方もあります。

 

「四象」という分け方で、「太陰」「少陰」「太陽」「少陽」です。

 

 

こっちは「量」という考え方に近いのかな。

 

 

 

さらにそれぞれ「境目」に近いところは「陽明」と「厥陰(けついん・けっちん)」とも言います。

 

3つの陽「太陽・少陽・陽明」

 

3つの陰「太陰・少陰・厥陰」

 

三陰三陽。経絡の名前です。

 

 

ブログでよく出てきます生理痛や婦人科系の病気に良いのが「三陰交」というツボ。

 

足の内側、くるぶしから指4本分ほど上のところ。

 

これは「太陰脾経」「少陰腎経」「厥陰肝経」の交わるところ。

 

 

ちなみに勉強していて「おお~」と思ったんですが

 

心臓は陽中の陽

 

肺は陽中の陰

 

肝臓は陰中の陽

 

腎臓は陰中の陰

 

になります。

 

で、陽は奇数、陰は偶数」にあたりまして、臓器の数もそれぞれ

 

 

心臓は一つ(陽中の)。

 

肺は左右の胸に一つずつ(陽中の)。

 

肝臓も一つ(陰中の)。

 

腎臓は左右に一つずつ(陰中の)。

 

 

肺も心臓も「陽中」なので、ボディの上側に

 

肝臓と腎臓は「陰中」なので、ボディの下側に

 

上手いことで来てるなぁと感じました。

 

 

 

とまぁこんな感じで、陰陽と一言で言ってもいろいろとあるのですね。

 

 

季節も陰陽のめぐりと同じで出来ていて、ちょうど1か月後の「冬至」は陰が最も強いところ。

 

一日で言うと「真夜中」です。

 

つまり、今は「太陰」の季節ですが、冬至を過ぎると徐々に日も長くなるので「少陽」となります。

 

 

陰極まると陽に転じるのが、冬至です。

 

人間の身体も自然のめぐりも、どちらも同じリズムで出来ています。

 

 

その自然のリズムに「戻す」のが、東洋医学の考え方。

 

逆に言えば「身体は本来、自然と同じリズム」になるのです。

 

仕事だったりストレスだったりで、崩してしまっているけど。

 

 

Tao思想もまた同じ考えです。

 

無為自然とはそういうこと。

 

Tao(陰陽)に身を任せて生きるということ、それを徳と言います。

 

 

最近テレビでよく「SDGs」と耳にしますが、究極は「人と自然の一体」という東洋医学の極致なのではないかなぁと、思ってたりします。

 

 

以上!

陰陽の基本のお話でした(#^^#)

 

 

こんにちは!

のりたかです(*´▽`*)

 

 

今日も黙々と東洋医学の古書を書き写しています。

 

書くのはリラックス効果があるのか、結構こころにも良い気がします。

 

 

今日もマニアックな内容ですので、お付き合いしてくださる方はありがとうございます。

 

 

黄帝内経素問の5章、陰陽応象大論を書き写してました。

 

今まで原文を読む機会があまりなかったんですが、やっぱり原文読むのって大事ですね。

 

凄く発見があります。

 

 

気になったのは「故同出而名異耳」という文章。

 

意味は文脈も含めると「なので、同じくこの世に生を受けても、健やかである者と衰弱する者の違いが生まれる」という内容。

 

 

陰陽の仕組みを知り、それに則った生き方をする人は、歳をとっても元気で若々しいが、陰陽に逆らった生活をすると、早くに老いる。

 

同じ命であっても、そんな違いが生まれるのである。

 

 

こういった内容です。

 

 

ところが、私は原文を見てびっくり!

 

思わず声を上げてしまった。

 

なんで「老子」と同じ文章が出てくるの!?

 

 

両者同出而名異

 

同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。(老子1章)

 

 

この両者(天地と万物)は同じところから生まれるが、名が違う。

 

同じところを「玄」という。

 

玄のさらに深い玄こそが、万物を生み出す門である。

 

 

この文章は一般的には「道(Tao)という名があったかなかったの違いがある」という意味ですが、私は名を「はたらき」と考えてます。

 

つまり「天地の誕生にTaoの働きはなかったが、万物の誕生にはTaoの働きがあった」ということ。

 

この「Tao」も、つまりは「天地の交わり」という性交の暗喩だと思ってます。

 

 

天地の誕生はどちらかというと「無性生殖」のような、分裂のような感じで生まれた。

 

万物の誕生は天地陰陽の気の交わり、男女の交わりで子をなす「有性生殖」ような感じです。

 

 

その両者は母なる存在の同じところより生まれてきた。

 

同じところとは玄(女性器)である。

 

玄のさらに奥の玄、子宮こそが万物を生み出す門である。

 

 

玄を女性器と考えるのは、6章の「玄牝之門」が女性器を暗喩していること等からですね。

 

 

ちなみに黄帝にも「玄」は概念として出てきます。

 

 

其在天為玄、在人為道

 

陰陽は天にあっては玄となり、人にあってはTaoとなる。

 

 

陰陽は天においては玄、人においてはTao。

 

Taoと玄を同じものとみてますね。

 

 

老子の言うTaoや玄と同じかはわかりませんが。

 

 

故同出而名異耳

 

 

この後の黄帝の文章も老子っぽいんですよね。

 

(Taoに逆らう)愚者は「足りない」と感じ、(Taoに従う)智者は「余っている」と感じる。

 

 

老子の「足るを知る」の考えとよく似ています。

 

 

そしてこの後の文章。

 

是以聖人為無為之事、楽恬憺之能、従欲快志於虚無之守。

 

なので聖人は無為を為し、何事にも執着せずあっさりとした生き方を楽しみ、穏やかな心地を守り思いのままに心地よく生きるのである。

 

 

老子63章にも「為無為」が登場します。

 

無為の説明だけで数時間はかかりそうなのでカッツアイ。

 

 

「従欲」をどう訳すかは難しいけど、いわゆる「欲望に従う」ではなく、「穏やかで心地よい心のまま」という感じだろうかね。

 

 

イメージとしては「今日はいいお天気だなぁ、お散歩でもしよう」という想いに従う感じ。

 

「ダイエットのためにウォーキングしなきゃ!太ってるのは嫌!」の欲に従うではなくね。

 

 

老子のTao思想と東洋医学の教えは、やっぱり近いものがあります。

 

 

先日から私も「全部白紙!全部いったん手放す!」な気持ちで過ごしています。

 

東洋医学や老子の勉強をしているのも、「役に立つかは分からないけど、やってみたいからやってみよう」という気持ちです。

 

 

すると、心が結構楽というか軽いというか。

 

気持ちいいなぁって感じますね。

 

こう「私の心と身体がしたがってる」ことをしている感じがします。

 

 

黄帝内経を読んでいて思いますのは、当然医学書なので「健康的な食事」の話とかも出てきます。

 

生活のリズムの話も出てきます。

 

 

でも、同じくらい「心の在り方」の話が出てきます。

 

穏やかであっさり、執着せずに無理せずに。

 

 

「私利私欲を手放す」というと、まるで「人のために頑張れ」な感じがしますが、そうではなく「その抱え込んでるものを手放してあげようよ」というような。

 

欲の裏側にある「恐怖」も一緒に手放してくれるような。

 

 

そんな話がたくさん出てきます。

 

恬淡虚無(てんたんきょむ)も、穏やかで何も持ってないような心地。

 

「何も持ってない」なんだけど、「十分足りている、余ってるくらい」という心地。

 

 

その余裕やゆとりの土台となるのは、健やかな身体で。

 

健やかな身体の基礎となるのは、そんな恬淡な生き方。

 

 

勉強していて、そんなことを感じました。

 

 

 

こんにちは!

のりたかです(*´▽`*)

 

 

「東洋医学」と掛けまして

 

「Tao思想」と解く

 

その心は

 

 

どちらも「治」のためのものです。

 

 

座布団はもらえないか(;'∀')

 

 

東洋医学の古書を書き写していた時に、ふと「治」という文字が気になりました。

 

 

治病は必ず本に求む。

 

病気を治療するときは、必ず根本を追求すること。

 

 

こういった考えから、東洋医学は「根本治療」と呼ばれるのでしょう。

 

 

東洋医学は「身体を治す」ものです。

 

治療、治す、「治」です。

 

 

老子のTao思想というのは、これは一般市民向けというよりは「国の権力者や王様」のための哲学書です。

 

なので「民を治めるには」や「国家というものは」という、スケールの大きな話が出てきます。

 

 

こちらも「治める」「統治」で、やはり「治」のためのものです。

 

 

で、東洋医学もTao思想も同じものなのでしょう。

 

 

東洋医学とは、「人の身体は自然と同じ」という考えです。

 

暖かい熱は身体の上に昇りやすい。

 

冷たい水は身体の下に溜まりやすい。

 

だからこそ頭寒足熱。

 

水が上部を潤し、熱が足元を温めるのが、健康的なサイクル。

 

 

自然と同じ仕組みだから、自然と同じようにしてやるのが良い

 

つまりは陰陽を治めることで、元気に長生きできる。

 

 

Tao思想も同じで「国家は自然と同じ」ということ。

 

食べ物やお金は身分の高いところに行きやすい。

 

身分の低いのところには向かいにくい。

 

 

Taoは上から下へ流れるもの。

 

聖人が国を治めたら、国民におなか一杯食べさせてやる。

 

飢えて死ぬ人間がいるのに、食べ残す権力者こそ「盗賊」である。

 

 

大国とは天下の下流なり。

 

多くの国がそこへ流れ集まる海である。

 

だからこそ、大国は謙虚であるのが良い。

 

 

そうすれば、国家もまた長寿で安泰である。

 

 

スケールこそ変われど、結局の仕組みは同じ。

 

 

ただTaoの場合、特に老子の場合は「天下は神の器である。治めようと手を加えると、かえって治まらないものだ」ともあります。

 

国を治めたいのであれば、「国を治めたい」という欲を離す必要がある。

 

 

天下を取りて之を治めんと将欲するは、吾其の得ざるを見るのみ。

 

天下は神器、治むべからざるなり。(老子29章)

 

 

さて、そう考えますと「身体」や「精」は、まさに「神器」と言えるのではないでしょうか。

 

東洋医学の「神」は、精神やこころ、もっというと「眼には見えない機能」の総称です。

 

その神が入っている身体は「器」ですから、まさに心と身体は神器と言えます。

 

 

東洋医学って「治す、治める、好き勝手コントロールする」ものではありません。

 

あくまで「自然の形に『戻す』」です。

 

 

ということは、ことさら「治す」という強い思い、行いは、老子の言う「将欲するは吾其の得ざるを見るのみ」ではないか。

 

かえっておかしくなってしまうのではないか。

 

 

もちろん、病気の治療をするなってことじゃないですよ。

 

わたしだってロキソニンも飲むしワクチンも打ったし。

 

 

 

ただ、なんというのか。

 

「お疲れ様、薬で楽にするから、今はゆっくり休んで」とか。

 

「頑張ってくれてありがとう」っていう声を、身体にかけてあげるのがまずは大事なのかなぁって。

 

 

そもそも、身体は自然と同じですから、自然とバランスを取ります。

 

その戻すお手伝いが漢方だったり鍼だったり。

 

 

自分の身体を信じると言えるかな。

 

 

そういうところ含めて「身体に従う」ことは、徳の生き方と言えるかも。