何度だって白状するけど、私は幼い頃から泣き虫だった。最近は年のせいか、とみに涙腺がゆるいらしくて、今日もご案内を書きながら涙が出た。


あるいは「大人になったから」と言って、遠ざけてしまったもの。
「なんの価値もない」と、決めつけてしまったもの。
「こんなんじゃ叶うはずもない」と、打ち捨ててしまったもの。


これはもう、他の誰かじゃなくて自分のことであり、自分の大切にしていた「物語」のこと。
コドモ心の素朴さ、純真さと言い換えてもいいかもしれない。
なんと、これがあったらオトナになれないと思っていたんである。

というか、オトナになれない引け目を感じて、コドモのような演出に走り、利用していた側面もあって、もうどっち行っても、にっちもさっちもいかないセルフ四面楚歌状態だった。
こんな規範が山盛りてんこ盛り、スカイツリー程ではないにせよ、福岡タワーくらいあった。
今たぶん、足元を解体しているところ。


感受性の高さが仇になっていた。
そりゃそうだ、コドモは自分の責任を取れない。
あまり受け止めてもらった記憶もないし、コドモなりに気を張り、隠していた面もある。

けれど、それは傷つかないよう守られることにもなったし、抑えることで景色が乾いていくのを目の当たりにして、警鐘を鳴らすことにもなった。
本当の意味で、捨てたわけではない。
乾いた心の土壌にある、僅かな潤いの中で眠っていただけに過ぎず、地下水の流れるがごとく湧き水の間で漂っていた。
行き場のないままでも、枯れ果てるよりはマシだった。おかえり、私の夢。おかえり、私の希望。
まだまだ君を足がかりにして、取り戻さなくてはいけないものが、きっとあるはずだね。

どうして、なぜこんな大切なものに気づけないでいたのだと責めるより、共に歩むと決めるよ。
失って初めて気づくより、取り戻して気づく涙のほうが、ずっといいや。


泣き疲れたのも、目が腫れぼったいのも、少し気恥ずかしい。
でも、カラダの反応にスナオになれたことにもホッとした。
今は余韻に浸りながら、きっと今夜も脳みそを整理する、へんてこりんな夢を見そうだなどと思っている。



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