どうもです。

シルキーミストラルとともに一口馬主デビューした僕ですが、初勝利は2頭目の出資馬が挙げてくれました。

その馬は、シルクブラッド。
父メジロマックイーン  母ウラカワハピネス 
母父ノノアルコ

当時から長い距離のレース、そしてステイヤーが好きでした。最強ステイヤーのメジロマックイーンの仔に出資できて喜んでいました。しかもブラッドは父と同じく芦毛。メジロじゃなくてシルクだけど、春の天皇賞4代制覇だ!なんて思っていたものです😤

母の父がノノアルコだったことは、ダイユウサクの父ぐらいの認識しかありませんでした。
ここに伏線があったのだろうと、今では思います。

当時の記録をみますと、1998年2月8日の京都芝1600で新馬デビューしています。須貝尚介騎手でした。須貝騎手には調教師転身後、縁があって僕の出資馬を管理され大仕事をやっていただくことになるのですが、当時はまだそんなことを知る由もありません😁
レースは10番人気の8着に終わっています。
マックイーンもなかなか勝ち上がれなかったからなあ、なんて程度でした。

次走からがビックリの連続の始まり。え?こんなはずでは・・・という思いでした。なんせそれからの6戦シルクブラッドは、1戦を除いて全て、芝かダートの1000か1200のレースでしたから😵 お〜い、ステイヤーじゃないのかい❗️なんで❓と。

まぁ悩んでも僕のメジロマックイーン産駒は、現実にはスプリンターだったのです。
母父のノノアルコの影響が強く出たのでしょうか。
(でも芦毛だぞ⁉️🤔)

9月26日の札幌ダート1000で5着、初の掲示板。
11月14日の福島芝1200で3着に入り、初の馬券圏内。
そして連闘した11月21日の福島芝1200で、シルクブラッドは初めて1番人気を背負って、1着でゴールを駆け抜けました。
千田輝彦騎手でした。
その瞬間はみておらず、後で記事で知りました。
それでもついに1勝目を挙げられたことは、一口ながら“馬主”であることを実感できて、感激もひとしおでした。

ちなみに当時は勝つと、今のように写真ではなく、テレホンカードかオレンジカードをもらえましたね、確か。

その後の500万下条件のレースは、16戦して4着と5着が1回ずつありました。何回か距離を伸ばしてみましたが、好走できず。もっとも1200に戻してもこのクラスを勝ち抜くには力不足でした。いつしかシルクブラッドは騸馬になっていました。彼は5歳の5月まで走り、それから高崎競馬へ転出しました。最後は岩手競馬でキャリアを終えていますね。

今、キタサンブラックやサトノダイヤモンドが、母父がスプリンターなのに長距離で強さを発揮することに、ファンや関係者に様々な意見があるように、血統について議論が盛んです。この両親から、この配合から、こんな馬が誕生するんだという意外性もあるわけで、これも競馬の面白いところです。

しかし当時の僕にはそうした柔軟性がなく、シルクブラッドが初勝利をプレゼントしてくれたことに感謝しつつも、なんか納得いかない不思議な感覚で彼のJRA全24戦をみていたのでした😅