関連エントリ:石原都知事

 さきほど更新した”非実在青少年”の性描写規制に関するもの表現の自由に関するエントリだったのですが,石原都知事と表現の自由といえば思い出されるのは,”ババア発言”Wikipedia)です。

 2001年,石原都知事が,生殖能力の無くなった女性が生きているのはムダなどと発言し,女性活動家らが損害賠償を求める裁判を起こした事件です。損害賠償を求める裁判であったのは原告らが金銭欲で動いていたからではなく,個々人の法益が侵されたとして訴訟を起こす以外に,この種の,性別や人種,民族,国籍,障がいの有無などの社会的カテゴリに基づくヘイト・スピーチを訴える方法がないからです。この裁判では――ヘイト・スピーチを訴えた裁判の通例として――原告ら個々人の法益が損なわれたとは認めず,損害賠償請求を認めませんでした。そして,ババア発言が正しいと認められたと勘違いした人々が大歓喜したのでした。

 石原都知事といえば他にもフランス語は数を数えられないと発言しやはり裁判になったことがあります。これもやはり,請求は棄却されています。
(ちなみに石原都知事よりはるかに文学者として優れているであろう志賀直哉は,「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として,フランス語を公用語にするよう提案しています[Wikipedia, 2010/3/20取得]。僕はフランス語をよく知りませんがどちらにも賛同しかねますが。)

 こうしたヘイト・スピーチを取り締まる法律を作ることは,先進国にとってはしばしば困難です。冒頭に掲げたとおり,表現・言論の自由という,重要な権利に関わるからですね。マイノリティの権利を守ることは重要だけれども,表現・言論の自由も守らなければならないという,深刻なジレンマがあるわけです。行き過ぎた権利意識のせいでどうのこうのと常日頃おっしゃっている石原都知事,”非実在青少年”の性描写を巡っては表現の自由を規制することも辞せずという石原都知事ですが,ご自身は,民主主義国家が個人の権利を保証している恩恵をちゃっかり享受していらっしゃるのでした。



 それにしても僕が驚いたのは,石原都知事の科学的無知(というか中学生レベルの保健体育の)です。
 生殖能力のなくなったババアには存在意義がないという価値基準からすれば,ほとんどの男性は,生まれながらにムダな存在だからです。ご存知の通り,女性は子どもを生むためには不可欠な存在ですが,精力旺盛な男性が一人いれば多くの女性を妊娠させることができるのですから。

 実際,”種の保存”の概念――石原都知事が依拠しているまさにその概念――が生きていた頃,なぜ種や集団にとってムダな存在に過ぎない男性と必要不可欠な女性の比率が1:1なのか,なぜ自然はそんなムダなことをするのか――1:99とかにした方が,石原都知事の好きな”国のため”とかになるんじゃないか――と,生物学者はしきりに首を傾げていました。結局,その謎は”種の保存”という概念が否定されることで,つまり男性は種や集団にとってはやっぱりムダだったけれどもそもそも個体は――進化的には――そうしたもののために生きているわけではなかったという結論に達することで解けたのでした。

 つまり石原都知事の発言は,とっくの昔に科学的に誤っていると判明している”種の保存”という概念に依拠していたという点でも,その概念によれば男性もムダであるにもかかわらず自分の偏見に基づいてムダなのはババアだけであると解釈してしまった点でも,二重に間違っていたのでした。

 石原都知事の無知を晒しものにせずに訴訟にしてしまったあたり,女性活動家らはちょっとセンスがないなあとそのときは思ったのですが,ただの活動家のコメントなんてメディアも取り上げないし,何より男性はムダなんてヘイト・スピーチで対抗しなかったのは,女性活動家の方が大人だったのかもしれませんね。

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