立禅無宿12・・・だったと思う
ちわ!久々の更新やね、なんて書くのも空々しいくらいほったらかしですが、まあ、春という事で、俺もどっちかと言うと木の芽時は花粉とか、脳が涌くとかではふんはふんな心持ちで、どーでもいいというか、カルビ喰いてぇとかそんな感じです。(・∀・)
で、まあ、立禅なんだけどもさ?
今回のお題は「自分主体でいいのかよ?」ってことなんだけど、これだけじゃ何言いたいんだかわかんないよねー。
で、最近の俺の練習場は池のほとりの公園なんだけど、周りが池でオープンなんで意外と風が吹くんだよね。
で、たまたま、風の強い日があって、やっぱ、こう体が揺らぐわけですよ。
まあ、自分の身体操作の大細工小細工を駆使しても、なかなか我、木鶏タリちゃわないんだね。
特に前から横から始終風が巻いてくるような環境だと、自分を主体として体とか意識とかごちゃごちゃいじくり倒しとってええんか?って気分になってくる。
そこで、ちょっと思いついたデスよ。( ̄ー ̄)
自分が主体となってバタバタするよりも、この周辺空間の一部になっちゃえばいいんじゃね?
しかも自分から空間を支配してやろうって前向きじゃなくて、もう俺、空間の一部でイイやって後ろ向きな感じねw
で、やってみた。
おおっ?凄くね?
止まるんよ、ピタッと止まる。 相変わらず風は吹いてんのに見事に止まる。
なんつーか、風が自分を素通りしてく感じなんだよね。
で、自分の存在が希薄になったっつーかね。
でも、妙な一体感、統一感があるわけよ。
あの、ほら?陰陽の話しがあったでしょ?
月(陰)は太陽(陽)の光によって初めて存在を表わすってのが。
空間と地面と風によって自分の存在が確認されるって言ってもいい。
で、思い出したんだけど、老師が言われた天地人の話で、天や地も人の認識無くば存在しないし、人も天地無くば存在しないってのがあったわな。
人間、自分を主体として他を区別し物事認識するのが当たり前になってると、どうしても三者を切り離して考えがちだけど、自分の輪郭を描くのを止めて、周りの風景を描き埋めていくことによって自分を浮き立たせるようにするって考えると、天地と自分の関係を感じざるを得なくなってくる。
套路でもそうだけど、自分でどうやって動かすかってのも大事だけど、空間と地面と自分が補完し合いつつ何も変わらずに刻々と変化していくと考えると、もう自分で動かしてるのか、空間や地面に動かされてるのかわかんなくなってくるw
これらは単なる認識論だと思われるかも知れんけど、認識が変わった瞬間に実際の技術が激変するのを何度も経験している身としては、いかに発想を転換できるかが肝だと思うんだよな。
この辺のことを師には確認したんだけど、さすがにこれから先はブログじゃ書けねーから、答え知りたい人は老師に質問するか、俺にメールしてください(身内のみだよん)('-^*)/
とりあえず
関係者以外の方にはようわからんでしょうが、とりあえず無事になんとかやっとりますんで、いろいろご心配おかけしました~m(_ _ )m
啄木じゃないですが「ジット手ヲ見ル・・・」そんな感じです。
ヾ(@°▽°@)ノ
業務連絡
ええと、昨日コメントくださった方、諸般の事情で公開できませんが、ご質問の件については、「はい、そうです」(^_^)v
できれば、どなたか知りたいのですが、よろしければ教えてくださいね~(^-^)/
帰ってきた立禅無宿11
ブログ読めやって放言しときながら、更新しないという自己矛盾。
なんとも内家拳的でスバラシイと思うんですよ?俺的にはw
伸筋と屈筋の統合と中庸・・・徒然なるままに書き連ねてきたんですが、面倒くさくなっちまって投げっぱなしになってたんですよ。ヽ(゚◇゚ )ノ
まあ、ブログなんてそんなもんで、かの文豪ゲーテも「投げないブログなどブログではない!」とはやっぱり言ってない訳でして、はいスイマセンね、どーも。o(_ _*)o
ふう、┐( ̄ヘ ̄)┌、伸筋と屈筋の統合と中庸ねえ、こんなんどうやろ?
例えば拳を握る。
ウチでは拳を作る時に握りこまない。
小さな卵を軽く握ってるが如く作る。
この簡潔な文の中に何があるのか? ってことですな。
普通、拳を「握る」ってくらいだから、内側に握りこんでくでしょ?
ホントにそうだろか?
小さな卵を握ったような拳の作り方を実際して見てみ?
確かに「握りこんでいく」ってのは間違っちゃいないよね。
でも、見方を変えてみると、開こうとするのを押さえてるようにも見えんかね?
見えない?ああ、そうですか・・・じゃ、終了・・・
つー訳にもいかんので、まあ、そう見えると思いねえ。
で、そこで実験ですよ?
まず、実験に付き合ってくれる暇人を見つけよう。
見つけたら、相手の手首を握って、大きく動いてもらう。
最初はグッと力を入れて握ってみて、相手に動いてもらう。
余程の力の差が無ければ動かされてしまうよね。
お互いの力がぶつかり合うのがはっきり分るはずだ。
次は脱力し切って握ってみる。
そうするとアラ不思議、相手は全く動けなくなる・・・というのは真っ赤なウソで、やっぱり簡単に動かされてしまう。
押してもダメなら引いてもダメでこの八方塞を打開するにはどうすりゃいいの?
そこで、先ほどの発想の転換ですよ!
開こうとしてるのを押さえてる
コイツをやってみよう。
握ると開くが同時に存在する拳の作り
とりあえず、握ると開くを同時にやってみる。
すると、妙な感覚に気付きませんか?
握る感覚と開く感覚がプラマイゼロで中和されて、力が抜ける感じ。
しかし、単なるダラっとしたリラックスではなくて、ニュートラルでストレスフリーな透明な感じ。
おお?両極の中庸とはまさにこのことや?
って調子コキながら相手の手首を握ってみると、今度こそアラ不思議。
相手は途端に動き出しの取っ掛かりを失って、動けなくなっちまうんですよ。
以前にも書いたんですけど(と、思うんだが)人間てのは取っ掛かりを作って重心変化ができないと動き出せないわけで、重心変化ができないと、思考さえ制限されてしまうんだよね。
さらに眼球運動と思考と重心変化も思いっきり関係しあってるんで、内家拳は常に四正四隅という全方向ベクトルの罠を使って相手の反射を未発に押さえ込んでしまう。
基本的に人が取っ掛かるためには偏りが必要だが、全方向押さえられるとその偏りがなくなり動きのスタートが切れなくなるわけでして。
なんか楊露禅かなんかが、手のひらに鳥を乗っけて飛べなくするってのがありましたけど、あれなんかまことしやかに、飛ぶ瞬簡に手を下げて~なんて解説されてたりするんですけど、やっぱり反射勝負じゃ人と動物では、どうしたって人の方が分が悪いと思うんですよ。
だったら、最初から反射殺しの罠を張っとけよってことで、全方向押さえちゃう。
いや、まあホントにそうやってたかは知らんのですが、辻褄は合うっしょ?w
じゃあ、この開くと握るが同在する手の形のどの辺が伸筋と屈筋の統合かっちゅうとですな、手の甲側から背中に繋がる裏側の筋肉群を伸筋、手のひら側から胸腹に繋がる表側の筋肉群を屈筋としましょう。
例えば、開くと握るをいっしょにやるってのは、まあ、日常生活においてはまず無いとい思うんだよね。
大体が握るに偏るし、どうしても見てる方向、表側の屈筋群に偏りがちになっちまう。
んじゃ、どうすりゃいいかっていうと、まず裏側背中側の伸筋群をしっかり意識してやる。
その時に大事なのが視線の置き方で、周辺視野を意識して全体を均等に見る目付け法をしてやると、普段意識をしにくい裏側を意識し易くなる。
あの~、立禅で上げてる手を押したりして、強さをチェックするでしょ?
その時、初心者は押されて崩れるんだけど、「視線を遠くにしてみそ?」ってアドバイスすると、強くなって押されにくくなるんだよね。
で、逆に「手元見てみ?」って言うとあっさり崩れる。
これは、実は単純なからくりで、視線を遠くにとると伸筋群が働いて、手元見ると屈筋群が働くわけ。
伸筋群は外からの押しに強くて、屈筋は弱いから、意識(視線)を遠くに置けば押されるのには強くなる。
でも、これにはオチがあって、逆に押さずに引っ張ってやると実にあっさり崩れてしまう。
引かれる場合は逆に屈筋のほうが抵抗できる。
どちらもそれぞれ得意不得意があるから、んじゃあ、一緒に意識してやるべ、まずは普段意識の薄い伸筋側に意識的な条件付けをしてやるべ、ってことなのよ。
お疲れ~
懇親会参加してくれた皆さん、お疲れさ~んヾ(@°▽°@)ノ
今年も盛会でしたな。
まあ、挨拶でも言ったけど、何でも聞いてちょうだいな。
気が向いたら返事すっからw
あの、ちょこっとやった掴まれた手を上げるやつな。
みんな手を動かそうとすると気配が出てそこを押さえられるでしょ?
なんで気配が出るかって言うと、やっぱそこだけ動いちゃうからだよな。
そこだけ動いちゃうと、体は流れず滞るんだよ。
全身を協調してあらゆるストレス、詰まりを流す・・・結局立禅や型やれよってことなのよw
説明の時はいろいろ言ったけど、ぶっちゃけあんなもんは後付けで、結局どんだけ立ったり動いたりしてるかに尽きると思うんだよな。
立禅とかしっかりやってりゃ、あんなことは大して難しいもんでもないし、イヤでもできるようになるんだよ。簡単だろ?あの辺の部分には秘密なんて無いんだよ、立ってるか立ってないか、そんだけwwwww
でも、立ってるのって雑念湧くし辛気臭いだろ?
でもそれ越えると立禅は快楽になってくるし、いろんなことが体感として分ってくるんだよな。
まあ、迷わず立てよ、立てば分るさ(*^-^)b