幼少期 学校時代 学生時代 社会人になってからと 

なにか自分と周りとのあいだに 

すきまのようなものがあり

長らくフィット感が 実感できていなかった

 

ある意味 生きている感じがなかったのだろう と おもう

 

 

肉体としては生きていても 

精神的魂的な生きる喜びを 

味わえる瞬間がなかった

 

ということか

 

 

そしてその原因は何だったのか ということについての

問いと答えが 同時に来たのが 

今日の午前だった

 

 

現在はこの問題は ほぼ完全に克服できているし

悩んでいるのでもないため 

その原因についても ついぞ考えたことがなかったのだが

 

なにげに家の中で つれあいと語り合ったり

マドモアゼル愛先生のお噺(はなし)動画を視聴して 

またしゃべり ブロ友のgotoさんの記事(以下にリンク)読むといった

一連の流れのなかから ポッと出てきたものとおもわれる

 

 

 

 

 

それはこういうことだ

 

 

子どもの頃からおとなになるまで

ずっと抱いてきた違和感のようなもの

 

あるいは虚無感のようなもの 

あるいは落ち着かなさとかの 根本要因は

 

自分を取り巻くこの世界という環境が

そこに住む人間も含めて

 

「無意味さに満ちていた」ということだ

 

 

ではなぜそれが 感知できるのか

というと それはもともと或る魂からの希求をもって

ここに生まれてきたからなのだ ということがハッキリとした

 

 

「意味の遍満する世界」にしたかったのだ

 

 

ここでいきなり「世界」というと 少し語弊があるかもしれない

 

 

まずは自分自身にたいして 自分の「人生」にたいして

自分が見るもの 触れるもの 

そして関わる「他人」にたいして

それぞれの瞬間ごとに「意味」を見出し

 

自分自身の「存在」というものが 

「意味」に満ちている状態となることが

魂の求めているものであり

それが実感できているときが 

 

魂が真の喜びを 体験している時なのだ

ということになるかとおもう

 

 

言い換えると 自分が 

まこと(真実)によって 「存在」し

まこと(真実)によって 充実した環境世界や人生を 生きようとする意志

 

 

この意志があるために

いまだ理想が 実現されていない世界に 

虚しさを 覚えたのだろうし

 

それがだんだんと得られてきたときには 

虚しさとは反対の 充実感を 

体験することができたのだ とおもう 

 

必死で意味を探り 獲得してきて 今の自分がある

 

そして今 自分においては どんな現実にたいしてでも

そこに意味をつむぎだすことを 可能にしたことにより

意味の遍満する世界が みごと実現している 

 

自分が本質的な意味における小説家であるということは

日常生活を生きる上で 常に呼吸するように

意味をつむぎださざるをえないことに優先するものではない
ベースには一瞬毎に意識的に在りつづけようとする瞑想性がある

 

 

 

 

だからこそ周囲には 意味に乏しい世界が

ひろがっているのが よく見える

 

その意味では まだまだ なのだ

自分だけが 豊かになって 何になろうか・・・

という意味において―

 

その意味において 薄っすらとした 悲しみがある