皆さん、こんにちは。
今夏、岩手県の平泉や一関付近の文化財を訪ね歩きました。
世界遺産にもなっているので、一目見て感動するようなものばかりでした。
平泉といえば、奥州藤原氏・源義経の滅亡の逸話、ではありませんか?
そのくだり、『吾妻鏡』にいろいろ記録が残されています。
その吾妻鏡の内容も見ながら、今回からしばらく、平泉と一関周辺の文化財を紹介します。
今回はまず、関山中尊寺を訪ねます。
中尊寺といえば金色堂が有名ですね。
そもそも今回、平泉へ行こうと思ったのは「いつも仕事で近くまで来るけど、平泉に寄る機会がなかった」ことがあります。
それもありますが、「奥さんと息子が、私を置いて旅行に行ってしまい、中尊寺金色堂を見てきた」ことが大きな理由でした。
それまで平泉に行ったことがなかった私は、
「父ちゃんが国宝とか世界遺産とか、大好きなこと知ってるくせに!!!」
と文句を言いながら、
「クソぅ、俺だって次の休みに平泉へ行ってやる!」
と思いながら、夏休みに一人、平泉へ向かったのでした。
中尊寺本坊
そして、実際に行ってきました、中尊寺。
平地にあると思ってたものだから、山の中に伽藍があって意外でした。
この山が山号にもなっている“関山”なんですね。
中尊寺は奥州藤原氏の廟所、という解説がよく見受けられますが、どうも最初はそうでなかったようです。
『吾妻鏡』には平安末期の中尊寺の詳しい記述があります。文治5(1189)年9月17日条に
「一、関山中尊寺の事
清衡が六郡を支配した最初にこれを創建した。…(中略)…寺院の中央には多宝寺があり、釈迦、多宝像を左右に安置した。その中間に関路を通して旅人の往還の道とした。…」
とあって、それまで関山中を通過していた奥大道に設けられていた関所を廃して釈迦・多宝の両如来を安置した堂を建てて関寺(関所と寺院の機能を持った施設)としていた、それがのちに中尊寺になったことが記されています。
ちなみにこの内容、「文治注文」の名で研究者の間では有名なんだそうです。
平安時代頃の寺院の様子が、当時の記録によって現代にまで伝わっているなんて驚きです。
では、私の訪問ルートに従ってまず、麓から登っていきましょう。
いきなり、麓の参道入口には源義経の従者だった武蔵坊弁慶の墓と伝わる塚がありました。
伝・武蔵坊弁慶の墓
本当に弁慶の墓かどうかはわかりません。
あくまで伝説でしょう。
でも、日本人の間に「中尊寺の入り口に、義経に忠誠を立てた弁慶の墓がある」という伝説が残る、その心情は理解できます。
やっぱり私は日本人だなぁ…
その先に、中尊寺の参道が続いていました。
この参道、坂道でして“月見坂”とも呼ばれています。
中尊寺入口と月見坂
月見坂
この道がまた遺跡として重要でして。
地元の伝承では、この道こそ古代の街道“奥大道”とされる道なんだとか。
両脇が切り立つ掘割状の道。幅も広い。
「うっ、古代の道っぽい!」
ヤバい、テンション上がる…
八幡堂
月見坂の途中には中尊寺を構成する様々なお堂が立ち並びます。
八幡堂は月見坂を上がってきて最初にお参りしたお堂。
下の写真の峯薬師堂は、目にありがた〜いご利益があることで参拝客が絶えません。
私は平安期の石造宝塔があることのほうが気になって仕方ありませんでした。
峯薬師堂
峯薬師堂の石造宝塔は、別の記事で紹介します。
そして、中尊寺の中核をなす本坊へ。
本坊表門
御朱印もいただきました。
月見坂はさらに続きます。この辺りではだいぶ緩やかになり、道が尾根伝いにあるのが分かりました。
いよいよ、メインのエリアが近づいてきたのです!
まずは左手に、きれいな博物館風の建物が見えてきました。これが「讃衡蔵」です。
博物館風、と書きましたが、2000年に新造された宝物館だそうです。博物館でした。
ここに中尊寺内の子院にあった宝物が集められています。国宝や重要文化財はほとんどここにあります。
有名な「中尊寺経」や、金色堂の床下から発見された藤原三代のミイラに副葬されていた遺品も、ここに展示されていました。
基本的には実物展示です。しかし残念ながらレプリカでの展示のものもありました。保存のためもあるのでしょう。できれば本物が見たかった…
じっくり宝物を鑑賞したあと、かの金色堂へ。金色堂は讃衡蔵との共通券で拝観です。
金色堂覆堂
旅行誌などでは上の角度から撮影された写真が多いので、私も撮影してきました。
ただ、こんな写真ばかりしか見たことなかったから、山中の鬱蒼とした森の中にポツンと金色堂があるんだろうと思っていました。
山岳寺院なのかな、と。
ところが全然違いました。撮影している私の背後は広く開けた明るい場所で、山の上とはいえ賑やかな広場になっていました。
金色堂は撮影禁止なので、写真はありませんが屋根以外はオール金箔貼り、内陣の柱の一本一本に螺鈿の装飾があり、高級感が満載。
どれだけお金かけて建立したんだろう。職人も大勢呼んで建てたんだろうなぁ。
まさに嘆息モノ、写真が撮れない分しっかりと見させていただきました。眼福、眼福…。
この金色堂の記述も『吾妻鏡』にあります。先ほどの「文治注文」の文中に次のように記されていました。
「金色堂。(天井・床や四壁、内陣はすべて金色である。堂内には三つの壇を構え、ことごとく螺鈿の装飾を施してある…)」
全くそのままではありませんか。金色堂は1000年近くを経てもほとんど姿が変わっていないことがこれでわかります。
もちろん、覆堂に収められていたこととか、途中で修理や補修を行っているから残っているわけですが、それでも戦火に遭わず災害にも耐えて残った事実は驚きです。
このあと、実は中尊寺の事務所にお願いして、普段非公開のエリアにある釈尊院五輪塔を見学しました。
これは、刻銘があるものでは日本最古とされる五輪塔なんですが、日を改めて紹介します。
この奥に釈尊院五輪塔が…
月見坂を登ってきた参道は金色堂の前を通り過ぎ、そのまま立ち入り禁止の看板の奥へと続いていきます。
釈尊院五輪塔はこの奥にあります。この、五輪塔へ向かう道も奥大道の跡なのです。
切通しになっているせいか、古式な雰囲気が満ち満ちているでしょう。
古代から中世にかけての街道は、とにかく中央へ真っ直ぐ向かおうとするので、山があろうが川があろうが直線に近いルートで通っていることが多いそうで、このような切通しになっている箇所が結構あるのです。
関東でいえば、鎌倉街道の古いルートはこのような切通しの箇所が多いです。
五輪塔を見学後は大池跡へ向かいました。
金色堂と讃衡蔵の間に坂道があります。それを下ったところにある広い草地が大池跡になります。
中尊寺大池跡
ここから浄土式庭園跡とみられる大池跡と建造物の跡が発見されています。
中尊寺にも西方浄土を意識した庭園が築かれていたとあって、発見時は結構なニュース扱いだったみたいです。
今は写真のような草地となっています。右下にわずかに写っている棚田風の段が建物跡です。
こんな谷間のようなところに、今でこそ草地しかありませんが、毛越寺のような浄土庭園が目の前に広がっていたことを想像するだけで楽しいです。
できれば遺構が見たかった…
この後さらに白山神社能舞台を見て、やっと下山です。能舞台についても後日に紹介しますね。
下りてきてからもさらに散策が続きます。
中尊寺境内は国指定の特別史跡ですが、数か所の飛び地も史跡指定されています。
それが「伝弁慶墓」、「閼伽堂跡」、「伝鈴木三郎重家の松跡」、「伝亀井六郎重清の松跡」、「伝増尾十郎兼房の松跡」、「鈴沢瓦窯跡」の6か所の史跡です。弁慶の墓は先に訪ねましたので、残りの史跡も訪ねました。
まずは閼伽堂跡へ。これは町営中尊寺第2駐車場内に残っています。
おそらく基壇だったとみられる土壇が、桜の樹に囲まれた一段高い草地となっていました。そこに自然石の礎石が整然と並んでいます。
閼伽堂跡
町営駐車場の上を走る県道から撮影しています。その名の通り、寺内の儀式で使う閼伽(水)を汲む儀式を行なうお堂が建っていたそうで、この上の山の斜面には現在、赤堂稲荷神社が祀られています。閼伽堂→赤堂、なんでしょうね。
そして第2駐車場の入り口には伝・鈴木三郎重家の松跡が、小さな草地で残されていました。
伝・鈴木三郎重家の松跡
こんな感じの場所ですが、ここもきちんとした史跡指定地です。
そして、駐車場の向かいにある平泉文化史館の裏手には、伝・亀井六郎重清の松跡があります。
伝・亀井六郎重清の松跡
さらに、平泉文化史館の前方へ回り込むと、伝・増尾十郎兼房の松跡が。
伝・増尾十郎兼房の松跡
これらはいずれも、石碑や案内の標柱が建っています。
ただ、閼伽堂跡以外はとにかく場所が分かりづらいです。
何人もの方に場所を訪ねましたが、地元の方でもほとんどの方がご存じありません。探し当てるのに一苦労しました。
そもそも、この3人は誰なのか?
どうも源頼朝による義経征討の際に義経を守った家臣で、それぞれが討ち死にしたといわれる場所に松が植わっていたらしいのです。
『吾妻鏡』には記載がありません。『源平盛衰記』や『義経記』に登場するようです。軍記物語に登場する人物なので、架空の人物もいるようです。
そして、一番わからなかったのがこちら、鈴沢瓦窯跡。
ネットを駆使していろいろ調べました。しかし場所が全くわかりませんでした。
Googole Mapでそれらしい標識を見つけたので、現地へ行ってみました。
しかも未だに中尊寺とどんな関係があるのか、わかりません。
古代や中世の中尊寺の瓦を焼いたのでしょうか。
鈴沢瓦窯跡
Googole Mapで見つけたそれらしき標識には、ただ「調整中」とのみ書かれていました。しかし場所はおそらくここです。
場所は中尊寺からかなり離れています。
むしろ観自在王院が近く、そのすぐ近くの草地です。空き地にしか見えません。
撮影している私のすぐ後ろが、観自在王院の北辺です。
ココだとすると、平地式の平窯で瓦を焼いていたことになりますね。登り窯じゃないんですね。
そのような窯は埼玉県の水殿瓦窯跡に例があります。
今回は直前に調べたので、町役場や観光協会などには問い合わせていません。次に訪ねるときは、もう少し調べてから訪ねようと思います。
なお、中尊寺はこれだけではありません。宝物は撮影不可なので紹介できませんが、釈尊院五輪塔や峯薬師堂の石造宝塔はもちろんのこと、経蔵や旧覆堂、白山神社能舞台などの石造物や建造物がありますので、順次紹介していきます。
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中尊寺境内 (昭和54年5月・国指定特別史跡 岩手県西磐井郡平泉町平泉)
中尊寺は山号を関山と称し、奥州藤原氏初代の清衡が創建しました。藤原氏3代のミイラが収められた金色堂が特に有名です。『吾妻鏡』に
「清衡が六郡を支配した最初にこれを創建した。白河関から外ヶ浜まで一町ごとに卒塔婆を建て、当国(陸奥国)の中心を計って一基の塔を建てた。また寺院の中央に多宝寺があり釈迦・多宝像を安置した。その中間に関路を通して旅人の往還とした。」
とあり、中尊寺を奥州の中心に置き、前九年・後三年の役で荒廃した奥州の仏教による供養と精神的な拠所としたことが窺われます。清衡が平泉を拠点として造営するにあたり中尊寺を中核として行ったともみられ、平泉発展の中心的役割を果たした遺跡として特別史跡に指定されています。
境内の主要な建物は14世紀の火災で焼失しましたが、金色堂や経蔵、金色堂旧覆堂は焼失を免れ、近世には仙台藩伊達氏の庇護を受けて境内が整備され、古の景観が現在まで伝わっています。また境内は発掘調査も進んでいて、最初に建てられた塔の跡ともされる「多宝塔跡」や、「中尊寺建立供養願文」に記された「大伽藍一区」と見られる大池跡と建造物跡も発見され、『吾妻鏡』に記された清衡創建時の様相も明らかになりつつあります。
また宝物も多数伝わり、奥州藤原氏時代の技術や文化を伝える「紺紙金字一切経(中尊寺経)」や「中尊寺建立供養願文」など、国宝にも指定される多数の文化財が伝わっています。
特別史跡指定地は境外飛地もあり、「伝弁慶墓」、「閼伽堂跡」、「伝鈴木三郎重家の松跡」、「伝亀井六郎重清の松跡」、「伝増尾十郎兼房の松跡」、「鈴沢瓦窯跡」が指定されています。
参考HP:
岩手県世界文化遺産関連ポータルサイト:http://www5.pref.iwate.jp/~hp0252/index.html
平泉の文化遺産:https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/heritage/index.html
参考文献:
『平泉 よみがえる中世都市』 斉藤利男・著、岩波新書(1992)
『現代語版 吾妻鏡』 吉川弘文館(2008)
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