2016年冬の「富山紀行」もいよいよ終盤です。
「北前船」の寄航港で廻船問屋の屋敷が建ち並ぶ古い町並みの「岩瀬」を散策した後は、
「富山地方鉄道富山港線」で「富山駅」まで戻り、ここから「富山地方鉄道本線」に乗車、
「東新庄駅」に向かいます。
電鉄富山駅
以前、「宇奈月温泉」や、「黒部峡谷トロッコ」に行くのに乗車したことがあります。
「東新庄駅」まで、乗車時間は15分弱です。
車窓には雪が積もる駅のホーム。
東新庄駅 に到着です。
いかにも地方の素朴な駅。
たまりません ストーブも置かれています。
この旅の最後に訪れるのは、やはり「富山」といえば”薬”、
またまた「富山の薬売り」の勉強ができる観光スポットです。
駅から歩いて5分ほど、
薬種商の館 金岡邸
金岡邸は、300年の歴史をもつ富山売薬業に関する資料を中心に、
薬業全般にわたる多くの資料が保存展示され、国内でもまれな薬業資料の館です。
母屋部分は明治初期の商家で、薬種商店舗の遺構をとどめており、
新屋部分は、伝統的木造建築の特徴が生かされた総檜造りの建物で、
豪壮で格調の高い折上げ格天井の座敷を有しています。
資本家として力のあった薬種業者たちは、富山県内各地に金融機関をはじめ広い分野に投資し、県・産業の育成に大きく貢献しました。
「金岡家」は江戸末期より薬種商を営み、家祖「金剛寺屋又右衛門」の長男「金岡又左衛門」は、若くして県議会議長、衆議院議員を歴任しました。
全国でもいち早く電気事業に注目し、1899年(明治32年)に「大久保発電所」を完成し、
北陸で初めて電灯をともし、多くの水力発電所を建設しました。現在の「北陸電力株式会社」。1913年(大正2年)に北陸初の電鉄の工事を完成し(富山軌道株式会社)、
1922年(大正11年)には「常願寺川」の治水につとめ、
砂防工事を国営事業に組み入れる道を開きました。
この水力、電力を基礎に多くの産業を誘致して富山県の経済基盤の土台づくりを成し遂げ、
他方、私財を育英事業に投じました。
2代目「又左衛門」は戦後、「第一薬品株式会社」や、
「富山合同無尽株式会社(現富山第一銀行)」を設立しました。
3代目「又左衛門」は、「テイカ製薬株式会社」や「富山女子短期大学」を創立し、
「富山相互銀行」を経営し、「富銀奨学財団」を設立しました。
5代目「金岡幸二」は情報産業のパイオニア「富山計算センター(現インテック)」を設立し、
全国屈指のコンピューター企業に育て、また「富山国際大学」を設立しました。
6代目当主「金岡祐一」は、北大教授、日本薬学会頭、日本学術会議第七部長、
富山国際学園理事長、富山短期大学学長、富山国際大学長などを歴任しました。
「金岡家」は、歴代薬種商時代の資本を元に、富山県の経済界に、
力強い足跡と業績を残しています。
母屋部分は、明治初期の薬種商金岡薬店をできるだけ忠実に復元したものです。
薬種商は、売薬業者に売薬原料を加工し、供給することを主な仕事とし、
当時、富山市内には30軒ほどありましたが、この店鋪は往時を偲ぶ現存する唯一のものです。
薬箪笥は1860年のもの。
豪壮な新屋は、ヒノキの薫りがあふれる静寂な空間です。
伝統的木造建築の特徴が生かされた総檜造りの建物で、
豪壮で格調の高い折上げ格天井の座敷を有しています。
「明治天皇」が休憩された名園を眺めながら、お茶会などの文化催事が楽しめます。
「金岡家」歴代当主。
お土産品のひとつ「売薬版画」。 薬研体験コーナー。
「売薬版画」
各地の庶民文化を刷り込んだ絵紙は、江戸、京都、大阪などの、
中央の文化的情報を地方の人々に伝えました。
薬種商の資料の展示コーナーへ。
売薬の原料。
原料の大部分は、中国など東南アジアから輸入した最高の生薬になります。
麝香鹿の剥製
肩まで高さわずか40cmの小柄な成獣です。
中国やチベットの高山を駆け回ります。
雄は腹部に香袋をもち、高貴薬に使われます。
「中国科学院」から寄贈されたものです。
薬の袋など。 江戸時代から明治、大正に売られた「富山売薬」。
最後の北前船と云われる、
薬を製造するための薬研など。 北前船 神通丸
薬をはかる器具。 手動型製丸機。
富山売薬の起源、 前田正甫
懸場帳 売薬版木や行商人の柳行季。
「懸場帳」
置き薬販売の顧客名簿でになります。
江戸時代から現代まで続きます。
各家庭毎に、住所氏名、配置薬の種類、数量、売上金額などのほか、
家族構成、持病なども、詳しく書いてあります。
そのため、これがあればすぐに商売を引き継ぐことができるので、
この顧客名簿は売買もされました。
行商人の柳行李
「柳行李」
重さが20kgもあります。
これを背負い毎日、20~30kmの道のりを歩いたり、船便を使ったり、
馬の背に乗せたりして行商しました。
中には、薬のほかに、「懸場帳」やそろばん、
お得意さんへのお土産品の紙風船などが入れてありました。
薬のパッケージ。
お土産の紙風船。 なぜか、宝くじの展示。
「金岡邸」を40分弱、見学しました。
「東新庄駅」に戻る途中に寺社に寄ります。
新川神社
昔は本社神域は現在の場所より約2km北東方向の「北陸街道」の沿道である五本榎辺りの
「志摩の郷(嶋)八嶋野」に鎮座したとされていました。
伝承によれば「新庄村」は673年に老人夫婦顕れ、
”我は 面足尊、惶根尊の化身なり、この地の氏神と成るべし”と申すや霊験を現され、
白鷹となり飛び去っていったといいます。
それよりこの地を「新庄村」と唱えるようになりました。
今日でも「新川神社」の社紋は鷹の羽を意匠した「 違い鷹の羽 」です。
累代新庄に住した越中の土豪である「三輪飛騨守長職」は、
1532年~1555年の「天文年間」に 「新庄城」を築城し、
城下の鎮守神として産土神・氏神である神々をまつり、
社領・神器・ 神宝 等の寄進が盛んであったと伝えられています。
古来より交通の要所でもある「新庄」の地は戦国の時代には戦略上も重要な拠点でもあり、
度重なる戦火により「新庄城」は攻められては落城し、城主は幾度も入れ替わりました。
「新庄城」の運命と共に神社の社領・神器・神宝も失われ衰退の一途をたどり、
その縁起、古文書などのすべて灰と化し今日に伝わらないことも多くあります。
「新庄城」が一国一城令により廃城となった1615年、
「常願寺川」の洪水のため「新川神社」の社殿、神宝、神器は
すべて押し流されてしまいました。
民家も多くつぶされていくこの時、氏子たちは必死の思いで今の境内地に集まり、
「新川大権現」に向かい、”このところを限界として洪水を留めてくれるのであれば
神殿をここに遷しまつりましょう” と誓を立て祈願したところ
水はたちまち減退し、一同は歓喜しました。
そして誓いを立てたとおりに、
1616年に「新庄城外」の高台である現在地に遷座されました。
「新川神社」に隣接して、 覚性寺 がありました。
この時点で15時40分。
散策を終了して「東新庄駅」から「富山駅」へ戻ります。
この後は、東京に戻る前に、富山の渋い居酒屋で最後の晩餐です。
久々の富山、いい旅でした♪