<東京都>~駒込から谷中へ・年の瀬寺社仏閣巡り④ | 花咲く旅路

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つづいては、    根津神社    へやってきました。

 

ここは、季節には、「ツツジ」が見事なんですよね~

 

 

 

西暦200年代の「景行天皇」の時代、「日本武尊」が「駒込」の地に創祀、

後、1469年~1487年の「文明年間」に「太田道灌」が社殿を奉建しました。

この地は、5代将軍「徳川綱吉」の兄である甲府中納言「綱重」の屋敷で、

6代将軍「家宣」が生まれた地、このため、「根津神社」はその産土神となりました。

現在の社殿は1706年、5代将軍「徳川綱吉」が嗣子「家宣」の氏神社として

当地に奉建したもので、社殿の他にも当時の唐門、透塀、楼門等がすべて現存、

国の重要文化財に指定されています。

「徳川家康」が眠る「日光東照宮」を継承した権現造りの形式になっています。

境内は7000坪、古来、「つつじが岡」と称せられ、

今も花季には100種3000株が咲き競う名勝です。

 

 

 

 

楼門

 

 

 

 

江戸内の神社の楼門で唯一残っているものになります。

安置してある「随身」の向かって右側は「水戸黄門」だと言われています。

 

 

 

 

                       初詣の屋台の準備が始まっていました。

 

 

 

 

 

拝殿

 

 

 

 

本殿 幣殿            透塀

 

 

権現造りんぼ「拝殿」、「幣殿」、「本殿」。

 

「透塀」は、社殿の周囲を囲んでいる塀。

細い木で菱形に組まれた窓から中が透けて見えるのでこの名があります。

全長200mの塀が300年経っても歪みなく、

調査で地中8mの深さまで基礎工事がされていることが分かりました。

 

 

 

 

舞殿               西門

 

 

 

 

 

千本鳥居

 

 

「乙女稲荷」に通じる奉納された朱の鳥居。

 

 

 

 

 

乙女稲荷

 

 

 

 

 

池を見下ろす舞台造り。

祠は穿たれた穴の中で、古い記録には「穴稲荷」とあります。

 

 

 

 

 

駒込稲荷

 

 

 

 

「根津神社」が「千駄木村」より遷座する前、

この地が甲府宰相「徳川綱重」の下屋敷だった頃の守り神でした。

屋根には葵のご紋が残っています。

 

 

 

 

 

 

徳川家宣公胞衣塚        塞大神碑

 

 

「徳川家宣公胞衣塚」

「徳川家宣」の胞衣(胎盤)を収めた場所です。

 

「塞大神碑」

悪疫が入らぬよう道を守る神で道祖神とも言われます。

「駒込追分」の一里塚に立てられていたもので、

道路拡幅の際、「根津神社」へ遷されれました。

 

 

 

 

 

庚申塔

 

 

道路拡幅の際、「根津神社」へ遷されたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりは「旧根津須賀町」。

 

 

 

 

 

 

 

 

お化け階段            サトウハチロー旧居跡

 

 

「お化け階段」

東京都文京区弥生2丁目にある住民の通路となっている階段。

段数は40段で、途中で屈曲する階段です。

上りと下りで段数が異なることから「おばけ階段」という名が生まれたもの。

かつては薄暗い階段でしたが、改修されて、お化けが出るような雰囲気ではなくなっています。

最下段の踏み石が浅く小さい段のため、上りでは数え、下りでは数えないというのが真相。

 

「サトウハチロー旧居跡」

大正、昭和の詩人、童謡作家。

1937年(昭和12年) から1973年(昭和48年) までこの地に住み、

数多くの詩や小説を書きました。

ハチロー亡き後、妻「房江」が「サトウハチロー記念館」として

1977年(昭和52年) から、1995年(平成7年) まで一般公開し、

現在は、岩手県北上市に移転しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本郷通り」へ。

このあたりは「東京大学」のキャンパスがあります。

 

 

 

 

 

 

 

弥生式土器発見の地     がありました。

 

 

 

碑が建っていました。

 

学校で学びましたね~

 

1884年(明治17年)、「東京大学」の「坪井正五郎」、「白井光太郎」と「有坂鉊蔵」の

3人は、「根津」の谷に面した「貝塚」から赤焼きの壺を発見しました。

これが後に「縄文式土器」と異なるものと認められ、

発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられました。

「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、

推定地として3か所が指摘されていました。

1974年(昭和49年)、「東京大学」構内の旧浅野地区の発掘調査により、

二条の溝と貝層、「弥生式土器」等が検出されました。

都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、

1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されました。

しかし、「弥生式土器」の発見地の特定にはいたっておらず、

現在も調査研究が進められている状態です。
「東京大学」の「農学部」と「工学部」の境に「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑が建ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「谷中」エリアに入ってきました。

 

今回散策しているエリアは「谷根千」と呼ばれます。

「谷中」・「根津」・「千駄木」のエリアを指します。

「文京区」、「台東区」に位置しており、東京23区の中心地に近く、

「山の手」の一角でありながら、今なお東京の下町としての風情を残す、

歴史と情緒が溢れる地域です。

「谷根千工房」より雑誌「谷中・根津・千駄木」が発行され、

雑誌を置くお店の皆さんが雑誌を略称して「やねせん」と呼んだことからこの言葉が生まれ、

それがこの地域を表す言葉として定着しました。

「谷中」にある「谷中霊園」は、15代将軍「徳川慶喜」や、

日本画で有名な「横山大観」など、多くの著名人が眠っていることでも知られています。

園内の中央園路は「さくら通り」とも呼ばれ、春に見られる桜のトンネルは圧巻です。

その途中には、「幸田露伴」の小説「五重塔」のモデルとなった「五重塔跡」があり、

都の文化財に指定されています。
「根津」には、ツツジの名所の「根津神社」があり、

近代文学の作品中にもしばしば登場しています。
「千駄木」には、「川端康成」、「北原白秋」、「高村光太郎」、「夏目漱石」、「森鴎外」

など、多くの文人が住んだ歴史があり、漱石の「吾輩は猫である」も、

「千駄木」にある家で執筆されました。

「谷根千」は今、古き良きものを大切に残しながら、

この地域を愛する老若男女が息づく、魅力あふれる町として注目されています。

 

 

 

 

 

 

天眼寺

 

「牛込少林庵」を譲り受けた紫衣号「越叟」が、

この地に移転の際に「天眼寺」と改号、1678年に創建しました。

松平下総守殿2代目「忠弘」の奥方「天眼寺殿慈光性輪尼大姉」が開基となり、

以後「奥平松平家」の菩提寺となっています。

「太宰春台」の墓があります。

信州飯田に生まれ、江戸に出て「出石侯」に仕えた人物。

「荻生徂徠」に復古学を学び、「沼田侯」に優遇されたといいます。

古文孝経を研究校訂して音註を作り、諸藩にわかち、

また「論語古訓」および「外伝」など数十巻を著しました。

墓は高さ132cm。

円頭角柱形の桿石に隷書で、「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玉林寺

 

 

「吉祥寺」5世「用山元照和尚」が開山となり、1591年に創建、

1648年には寺領21石余りの御朱印状を拝領しました。

境内には昭和の大横綱「千代の富士」のお墓と銅像があります。

また、「本堂」の裏側には東京都の指定天然記念物の「シイの木」があります。

この「シイの木」は、寺の創建以前に存在していたそうです。

 

 

 

 

 

 

本堂               千代の富士像

 

 

「千代の富士像」

2011年(平成23年)建立されました。

「千代の富士」の菩提寺でもあった「玉林寺」に、

横綱の偉業をたたえ建てられました。

銅像の眼差は「富士山」と「お墓」に向けられているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いいですね~「谷中」の路地。

夕日もいい!

 

    

 

 

 

 

 

 

 

細い生活路。階段もあります。

下町感すごい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)