前回のブログでの斉藤一人さんの「地球が天国になる話」の続きです。
※本の抜粋より
『親が子供に劣等感を与えているんだよ』
人生って、少し上を望んで何かをするってすごく楽しいことなの。子供が自発的に「絵だってもっとうまくなりたい」「ピアノだってうまくなりたい」って言うなら楽しいの。
けれど
子供の速度を超えて、もっと望むの、もっと。それで行かないとすごいがっかりした顔をするの。
それを、あたかも親は「あんたのことを可愛がっているからだよ」みたいなことを言うの。
それが子供にものすごい劣等感を与えるの。
要するに劣等感を与えられると、今度はその子供の方で、自分に対して「自分はいい子だったり、そういう時以外はかわいがられないんだ」と思ってしまう。おとなしい子供のパターンだよ。
劣等感をうんと与えられて育ったおとなしい子というのは、「お母さんは自分がいいことをした時は喜んでくれる。気に入らないことをすると怒る。ということは、自分は何か常にいいことをしていないといけないんだ」という状態になってくるの。
親は勝手に、自分の劣等感を補うために子供を叱っているようなものなの。自分に劣等感があるというのを知らないんだよ。
だから子供にそういうことをすると、やられた子供の方は自分が無価値だと思っちゃうの。それで、自分に価値を見いだすためには一つのことをしなければいけないんだ、と思っちゃう。
それは人が喜ぶことを常にしていないと、自分は無価値だと思ってしまうから(全員とは言わないよ)、意外とそういう元気のない子に「あなた、何がやりたいの?」と聞くと、「自分はボランティアとか福祉をしたい」って言うの。
それは何かいいことをしなければ、自分は価値がないと思っている。だから、おとなしい子というのは、そういうボランティアをしたがる。
ボランティアをやっている人全員がそうだということではないよ。 だけど、そういう人がいるの。
それで、必ずそういう人の特徴というのは楽しそうにやっていないの。見るからに。
だって本当にやりたいことをやっていると楽しそうなのにね。だけど、自分のコンプレックスを補うためにボランティアをしている人というのは、本当はやりたいわけではないから、「やりたいの」って言いながら なかなかやらないの。
そしてこういう人が、本当にボランティアをやったとすると 今度どうなるか、やらない人に対して「あの人たち何でやらないんだろう」って、不平不満をぶつけ出す。
だって、自分はやりたくてやっているんではないんだもん。「やりたくないのに私はやってるんだ。だから何であなたたちはやらないんだ」っていう理論になってくる。
それで親に与えられたり、もちろん「私は親がいませんでした」と言っても、人のうちに預けられて そこのところでいじめられたりすると、親だけの問題ではないよ。育ててくれた人の話をしているの。
そうすると自分は無価値な人間なんだ、って思ってしまう。劣等感があっておとなしい人というのはうつ病になったりする。だって、いい子なんだもん。
いい子なのに「もっといい子になれ、もっといい子になれ」って。すると息苦しくなっちゃうんだよ。
それで暴れられればいいけど、暴れられないと毎日親に愛という名の暴力を振るわれているのと同じなんだよ。
あれを振るわれると、だんだん元気の気を取られちゃうの。何で無気力になっちゃったのって、誰か奪った人がいるの。
そういうおとなしい子が学校に行ってもいじめられるの。いじめる方も、劣等感を持っている。
劣等感があっておとなしい子を、劣等感のある攻撃的なやつがいじめるんだよ。
会社でも、おとなしい子はうつ病になったりするんだけど、全員が劣等感があるんじゃないよ。
社会に出てくると、自分の劣等感を攻撃的な人間は埋めようとするの。
でも、世の中にはそんな劣等感のない人間もいるの。本当に優しい人間。そういう人は優しいし能力もあるから出世する。すごく人望がある。
するとそれを見ながら、「自分も同じ地位に上がれば、みんなから尊敬されるんだ」と思う。
ところが劣等感のある人間は根本的に自分が嫌いなの。自分が嫌いなんだから人に好かれるわけないの。
「自分だってあんたのこと嫌いなんでしょう。自分が嫌いなんだったら人だってあんたのこと嫌いだよ」という話になるんだよね。
だから、そうなってくるとその人間は、今度出世しても誰も尊敬してくれないから、よけいに劣等感がわいてくるの。
会社で弱そうなやつを見つけて、そいつを的に掛けてずっと怒るの。叱るという名の「うさ晴らし」を始めるの。
家に帰ってきて、奥さんの箸の上げ下ろしとか、雑巾の置き方にまでねちねち言うか、子供に対してずっとねちねち言ったりしているの。
それで気がついていないの。自分が親から受けてきた劣等感でそうなっていることに気がついていないの。
このことに気づくために、人は何度も生まれてくるの。