杏奈さんのレッスン③ | 渡辺修也オフィシャルブログ「雨ニモマケズ」Powered by Ameba

杏奈さんのレッスン③

足を高く上げたり、床にペタっと入ったり、そういったところでは勝負はしない、というかできないなということで、踊りというものと向きあっていくことになる。

あれこれ試行錯誤しているうちに、ないものねだりをしても仕方なく、やがて「別にそういうのができたいってだけでやってたわけでもなかったな」という良い意味での諦めも出てくる。そして「なにが楽しくて踊ってるんだっけな?」「なにが好きでこんなに身体動かしてるんだっけ?」ということを考えだす。

もともとパントマイムをやったきっかけってのは「身体って自分が思ってもいないような動きができるんだ」という驚きと「使い方によっては空間さえも動かすことができるんだ」という感動だった。僕はそういうのが楽しかったのだ。

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あまり身体の柔軟性にこだわらず、そんな風に考え始めたころにまた杏奈さんのレッスンを受ける機会があった。

さて「身体の硬い自分には杏奈さんのムーブメントなんて無理だよ…」という意識がだいぶ薄れた状態でレッスンを受けれたところ、1年目に受けていたのとはまったく違った。

そもそも、よく思い出してみると、杏奈さんから可動領域の狭さで怒られたり指摘されたことなど一回もなかった。杏奈さん自身の身体の柔らかさや周りのメンバーの柔らかさ、それに加えて自分が踊れないことの言い訳も加えて「自分は身体が硬い」ということで全部くるんでいただけだった。

杏奈さんは常に身体の構造を基礎知識としてベースに置きながら、空間と身体の接点から生まれるものを「動き」として抽出し、アートとして昇華するということを淡々とやり続けていただけだったのだ。そして生まれた「動き」が空間と身体、ひいては己の感情にどういう影響をおよぼすかというフィードバックを導き、そこからまた新たな動きを抽出する…という螺旋をレッスンの間中に描き続けていた。

僕自身の身体の条件に言及されたことなど一回もなかったのだ。言及されるどころか、この間の「ラブ・レター」のレッスンの際には

「『今』の自分の身体から生まれる動きを感じないと」

ということまで言っていた。同じ振付だとしても、個々の体や感性から生まれる動きは極めてプライベートなものであり、それゆえに価値のあるものだと、そんなメッセージも込められていたと思う。

踊りにおいて可動領域の広さを追求することは、もちろん人前に出す商品価値として必要なことだ。だからそこにある種の諦観を抱いているのはプロとして失格かもしれない。

でも、そうでなくても魅せれるもの、何よりも自分自身が魅せられるものを、踊りの中に見出してもいいだろう。杏奈さんのレッスンの中にはそんな風に思わせてくれる何かがあると、ようやく最近気がついた。