「蛇」なのに「孤」独とはこれいかに④
なんだか蛇関係なくて孤独に立ち向かうシリーズになってしまったけど、まあ最後まで書きます。
②孤独を良しとする
立ち向かうというより、孤独自体を愛せよってことですね。
まあそもそも、それがどうしたらいいんだろうってことになるんですけどね。とりあえず僕の好きな茨木のり子さんの詩にこういうのがあって、ちょっとのっけてみます。
「一人は賑やか」 茨木のり子
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある
一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ
ってやつなんですけどね。
面白いな、と思って。というのは、きっと茨木さんも孤独だったと思うんです。だから、
「誓って負け惜しみなんかじゃない」
って書いちゃう。
茨木さんは若くして旦那さんを亡くして、その旦那さんを30年以上愛して自分も亡くなった方です。それはまた「歳月」って詩集にまとめられているんですけど。そういった意味では30年の孤独を胸に生きた方です。
ちょっとよく読んでみると、散々最初に、一人でいることは「賑やかだ」、つまり寂しくないって書いたあとで、でも最後に、
「恋人よ まだどこにいるのかもわからない 君」
って書いちゃう。
どこにいるのかもわからない恋人と会うことを前提に書かれているんですね。つまり、ゆくゆくは一人ではなくありたいと。散々一人であることの理を説いたあとで、一人は嫌だってことです。
ただし、その誰かといるときの心持ちが問題で、ただ誰かといたいというだけでは、
「一人でいるとき淋しいやつが 二人寄ったらなお淋しい おおぜい寄ったなら だ だ だ だ だっと 堕落だな」
ということになってしまう。だから散々一人でいることの充満を書き記したあとで、
「一人でいるとき 一番賑やかなヤツであってくれ」
といつか出会う恋人にねがう。
つまりどういうことかというと、恋人って書いてあるのがポイントで、これは決して不特定多数の人ではないわけです。一生の中で出会う人間の中でも極めて近しい存在。そんな人は多くはいません。
人と関わることは大事だけど、それが多くなればなるほど、多くの気を使います。多くの関わりを保つためには多大な努力とエネルギーを要します。そこに忙殺されれば、それは孤独とは呼ばないにしてもきっと別の名前で呼ばれるある種の虚無を巻き起こすでしょう。
ですから孤独と立ち向かうには多くなくていい、決して少なかったとしても大事な人と関われていればいい、そういうことなんだと言われている気がするのです。
ではそれはどんな人か?
それが「一人であっても賑やかな人」です。ここで賑やかというのは別に馬鹿騒ぎするわけではなく、賑やかとは、
「よからぬ思いもわけば、毒茸もわき、水平線は傾いて荒れに荒れ、凪いだとしても生まれるのは、馬鹿貝」
というような凄惨な状況です。つまり孤独であることの心の激しい有り様を自分でわかりながらもそれを内包できる人間、寂しさと同居できる人間、人はそもそもが孤独な存在だと受け入れてなお笑顔を浮かべられる人間。
そういったもの同士が出会えば、孤独は癒される。だから自分もそうありたい。そう、茨木さんは書きたかったんじゃないかなと思うわけです。
だから、自分が孤独であると知ってなお、独りで凛と立つことを良しとする人間、そういう者と同じ者が惹かれあって、そこに本物の癒しが生まれるのではないか。
茨木さんの詩からそんなことを思うのです。
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②孤独を良しとする
立ち向かうというより、孤独自体を愛せよってことですね。
まあそもそも、それがどうしたらいいんだろうってことになるんですけどね。とりあえず僕の好きな茨木のり子さんの詩にこういうのがあって、ちょっとのっけてみます。
「一人は賑やか」 茨木のり子
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある
一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ
ってやつなんですけどね。
面白いな、と思って。というのは、きっと茨木さんも孤独だったと思うんです。だから、
「誓って負け惜しみなんかじゃない」
って書いちゃう。
茨木さんは若くして旦那さんを亡くして、その旦那さんを30年以上愛して自分も亡くなった方です。それはまた「歳月」って詩集にまとめられているんですけど。そういった意味では30年の孤独を胸に生きた方です。
ちょっとよく読んでみると、散々最初に、一人でいることは「賑やかだ」、つまり寂しくないって書いたあとで、でも最後に、
「恋人よ まだどこにいるのかもわからない 君」
って書いちゃう。
どこにいるのかもわからない恋人と会うことを前提に書かれているんですね。つまり、ゆくゆくは一人ではなくありたいと。散々一人であることの理を説いたあとで、一人は嫌だってことです。
ただし、その誰かといるときの心持ちが問題で、ただ誰かといたいというだけでは、
「一人でいるとき淋しいやつが 二人寄ったらなお淋しい おおぜい寄ったなら だ だ だ だ だっと 堕落だな」
ということになってしまう。だから散々一人でいることの充満を書き記したあとで、
「一人でいるとき 一番賑やかなヤツであってくれ」
といつか出会う恋人にねがう。
つまりどういうことかというと、恋人って書いてあるのがポイントで、これは決して不特定多数の人ではないわけです。一生の中で出会う人間の中でも極めて近しい存在。そんな人は多くはいません。
人と関わることは大事だけど、それが多くなればなるほど、多くの気を使います。多くの関わりを保つためには多大な努力とエネルギーを要します。そこに忙殺されれば、それは孤独とは呼ばないにしてもきっと別の名前で呼ばれるある種の虚無を巻き起こすでしょう。
ですから孤独と立ち向かうには多くなくていい、決して少なかったとしても大事な人と関われていればいい、そういうことなんだと言われている気がするのです。
ではそれはどんな人か?
それが「一人であっても賑やかな人」です。ここで賑やかというのは別に馬鹿騒ぎするわけではなく、賑やかとは、
「よからぬ思いもわけば、毒茸もわき、水平線は傾いて荒れに荒れ、凪いだとしても生まれるのは、馬鹿貝」
というような凄惨な状況です。つまり孤独であることの心の激しい有り様を自分でわかりながらもそれを内包できる人間、寂しさと同居できる人間、人はそもそもが孤独な存在だと受け入れてなお笑顔を浮かべられる人間。
そういったもの同士が出会えば、孤独は癒される。だから自分もそうありたい。そう、茨木さんは書きたかったんじゃないかなと思うわけです。
だから、自分が孤独であると知ってなお、独りで凛と立つことを良しとする人間、そういう者と同じ者が惹かれあって、そこに本物の癒しが生まれるのではないか。
茨木さんの詩からそんなことを思うのです。
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