現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第二部「水」の「敗走」から「高坂弾正の献策」までです。

 


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「敗走」

勝頼の本陣は敗走しながらもよく戦いました。敗戦となるとともに武田の陣営は乱れましたが、身を捨てて主人を庇おうとする武田武士の本領が各所で見受けられました。

寒狭川の猿橋の渡では、長篠城から退いて来た室賀信俊、高坂源五郎らが殿軍として控えていました。この軍隊が居なかったら、勝頼は退路を酒井忠次の軍に断たれるところでした。

馬場信春は、敗戦と決まった時、自ら殿となることを決意しました。最右翼の馬場隊は敵に後ろは見せずに、敵に相対したまま徐々に引き、堂々と退いて行きました。信春は、勝頼が寒狭川を渡って落ち延びたという報告を受け取ると、いよいよ自分の最後が来たことを知ります。信春は辛夷の大木の根本に腰をおろして来たるべき敵を待ちました。彼は春先に白い花を咲かせる辛夷が大好きでした。死に場所として悪くないところだと思いました。

岡三郎左衛門と名乗る者が斬りつけて来ました。相手は若く隙だらけでしたが、馬場信春にはそこへ斬り込むだけの力は残っていませんでした。

勝頼主従は馬場信春らの犠牲によって、敗残の兵をまとめつつ、菅沼定忠の田峯城(長篠から約十三キロ)を目指しました。菅沼定忠はこの度の戦いに加わり、勝頼と共に引き揚げて来ていました。城門を開けさせようとすると、五百人ほどを率いてこもっていた家老の今泉右衛門道善が徳川方に寝返って、門を開こうとしません。攻め取ることもできましたが、勝頼はこれ以上兵を失いたくはないと考え、曾根内匠を敗戦収拾の大将として二千余の軍勢を田峯に残し、落ちてくる武田の兵を収容することにしました。

勝頼は遅くなって、菅沼定忠の支城である武節城に着きました。曾根内匠は勝頼に命ぜられた任務を果たして武節に着きました。翌日、武田軍は三河と信濃の国境を越えて、伊奈の根羽につき、徳川軍の追撃を恐れることはなくなりました。菅沼定忠と家老の城所道寿は、今泉孫右衛門らの裏切りに立腹し、必ず田峯城を奪い返す、と勝頼に誓います。

7月、未明のまだ薄暗い中、菅沼家同士で容貌がよく似ていることを利用して、田峯城の番士を欺き、門を開かせて一気に田峯城を奪い返します。二人は死んだと見せかけて浪合に隠れていましたが、機が熟するのを見て、前夜武節に現れて、この早朝の攻撃に出たのでした。

菅沼定忠は、この朗報を古府中の勝頼に報じました。失意の中にあった勝頼は、これを聞いて愁眉を開きました。過分の賞讃の言葉が定忠に与えられました。

 

「落武者哀れ」

徳川勢による落武者狩りは、翌朝早くから始まりました。道の要所に人を出して固め、各村落にも人をやって、落武者を見掛けたなら届け出るように手配しました。

徳川方に長谷川庄左衛門という者がいました。武田の落武者と出会し、一刻(二時間)余りの死闘の末、その場に来た北村安兵衛という侍にその落武者の首を横取りされました。そこにたまたま通り合わせた山本一郎兵衛は、その首は長谷川のものであると言い、北村を斬り殺してしまいます。長谷川はその首のお蔭で出世しますが、山本に感謝して馬を贈りました。両家はその後も親しく交際して幕末に至ったそうです。

酒井忠次の家来に青木九郎十郎左衛門という臆病な男がいました。一族が参戦したので止む無く従軍しましたが、残敵掃討などどうでもよく早く帰りたかったのでした。途中、偶然にも武田の落武者たちが自分たちの大将の首を塚に隠して去ったところに出くわし、それを拾って帰ります。そして拾ったことを正直に酒井忠次に報告しました。拾った首を自ら取ったと嘘をついたり、他人が取った首を横取りしたりする者が多い中、青木九郎十郎左衛門だけは真実を述べたことから、武具奉行に出世したのでした。

望月甚八郎重氏は武田家の一門です。敗戦後、山中に逃げ込み、御園(愛知県北設楽郡東栄町御園)まで来ましたが、村人たちに裏切られて主従五人とともに自害します。その後、その村には赤痢が流行り、村人たちは武田のたたりだとして、重氏らの遺体を御園峠に埋葬しました。ここは重氏らの故郷からの風が吹き通る峠で、重氏らが死に場所に選ぼうとしたところでした。その頃から、御園峠は望月峠という名前に変わったそうです。

奥平貞昌は、設楽ケ原の戦の翌年、徳川家康の長女亀姫を正室として迎えました。しかし、この亀姫は酷くわがままで、自分の思うようにならないと周囲の者に当たり散らし、終には父家康のところへ帰ると言ったそうです。この亀姫への悪口、実は領主たちの奥平貞昌への反感がそうさせたとも言われています。貞昌は、武田軍の来襲に備えて長篠城を改築するために、付近の農民を過酷に取り扱ったからです。

負けた武田勝頼に対しては、地元はすこぶる同情的です。盆の十五日には、“火踊り”と名付けて、火祭りを行ない、武田の戦死者を弔いました。この風習は徳川幕府に気兼ねしながらも中断することなく毎年行われて現在に及んでいるそうです。

 

「高坂弾正の献策」

勝頼は伊奈の高遠城に暫く留まった後、古府中へ帰りますが、総大将の勝頼が若く、張り切り過ぎて無茶な戦をしたから負けたのだ、などという噂が流れました。このような噂が流れることが武田軍団にとって最も困ったことでした。

信州松代に海津城主、高坂弾正昌信は、武田軍大敗北の報に接して急いで古府中に駆けつけました。高坂弾正は切腹を覚悟の上で勝頼に、敗戦の原因を糾明し、罰すべき者を罰しない限り、武田を立て直すことはできません、と諫言します。弾正は、穴山信君と武田信豊を切腹させるように勝頼に言いますが、勝頼は返事をしませんでした。弾正は次に、武田軍の再編成を提案します。この戦いで死んだ多くの大将の後を、縁故の者が継ぐと武田軍が弱体化するので、実力のある者を採用しようとしたのです。勝頼は、高坂弾正こそ側近武将として据えるのがよいと考えましたが、弾正は上杉謙信との信越国境を海津城で死守しなければならず、動けませんと断ります。

六月に入ると、徳川軍は二俣城攻撃を開始します。二俣城は依田下野守信守の父子が守っていました。徳川方の大久保忠世は二千の兵を率いて来襲し、付城を築いて二俣城を長期にわたって包囲しようとします。

依田信守は五十を幾つか過ぎていましたが、強気の武将でした。信守は自ら城兵五十五名を率いて付城に夜襲を掛けました。夜襲は成功しましたが、この時受けた刀傷が化膿して死んでしまいます。依田信守の死は古府中へ報ぜられました。勝頼は、信守もまた逝ったか、と一言言いましたただでさえ人不足の折に、依田信守を失ったことは武田にとって大いなる損失でした。

 

 

昔も今も、組織の刷新は難しいものです。特に大敗してしまった後は、誰もがその必要性を分かっていても出来ないものです。そしてまた、こういう時に限って、不運な出来事が続くものです。この先、勝頼率いる武田軍は、どのように破滅の恐怖に抗いながらも、滅亡への道を辿って行くのでしょうか。

 

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