現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第一部「陽」の「伊賀者奥入り」から「長篠城仕寄戦術」までです。



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「伊賀者奥入り」

伊賀者といえば忍者のことですが、黒装束を着て忍法を操る者という訳ではなく、商人として相手の国土と行き来し、長い時間をかけて信用を築き上げて入り込み、動静を探ったり諜報活動をしたりするほうが通常で、そのような者を奥入りと呼びます。

武田勝頼の率いる軍団がしばしば三河に侵入するようになったので、徳川方も三河北東部の防衛について真剣に考えざるを得なくなりました。この地域の豪族である山家三方衆のうち、長篠の菅沼氏、作手の奥平氏は徳川方に寝返っていましたが、田峯の菅沼氏だけは武田方についたままでした。

服部半蔵が、刀屋権兵衛と又四郎の二人の奥入りを奥平貞昌のところに連れて来ました。権兵衛と又四郎は、奥平貞昌に他の山家三方衆でまだ武田方についている者達へ刀を贈る旨の書状を書かせ、それを運ぶことで相手の動向を探り、そして調略することを提案します。

武田家諸国御使者である胡桃伝兵衛のところに、刀屋が頻繁に出入りするとの情報がはいりました。田峯城の菅沼刑部少輔の縁続きである菅沼勝兵衛が得意げに刀を見せたとの話が入って来ましたので、胡桃伝兵衛は菅沼勝兵衛の館に忍び込むことにしました。すると、奥平貞昌からの書状が見つかりました。それにはお詫びの品として刀を贈ることしか書かれていませんでしたが、明らかに懐柔策であると見抜きます。このことを古府中へ知らせたところ、暫く様子を見ろとの返書がありました。

胡桃伝兵衛はその回答に不満を覚えます。一旦は、部下たちに菅沼刑部少輔の身辺を見張るように言いつけますが、伊奈の根羽で刀屋権兵衛と又四郎を捕えます。脅かして見ると、二人は顔色を変えて額を土にこすりつけ、運び役をやったことを認めました。しかし、身体検査をしても疑わしい物は何も持っていなかったため、許してやるのでした。その後、諸国御使者衆の組頭大月平左衛門の子である大月平造が、二人が左手で傷口を押さえていたその下に何か隠していたのではないか、と胡桃伝兵衛に言います。伝兵衛は直ぐ権兵衛と又四郎を追いましたが、二人の姿は見えず、背負っていた荷が路傍に放り出されていました。

 

「境目の城」

境目の城とは、長篠城のことを指します。長篠城は大野川と寒狭川とが合流する地点にあり、周囲を水で囲まれた城でした。奥平貞昌は武田方を裏切り徳川方についたので、その褒美に長篠城の城主となりました。

徳川の重臣である酒井忠次は奥平貞昌に、武田軍から長篠城を死守せよと命令します。四月の半ばを過ぎた頃、浜松からの伝令があり、勝頼が一万五千の軍を率いて古府中を出発、伊奈街道に向かうとの報が入りました。雨と共にやって来た武田軍は、長篠城を包囲します。武田軍は竹束を積み上げ、その陰に望楼を組み上げたため、城の内側から鉄砲隊が一斉射撃をしても効果がありませんでした。貞昌は塩谷五八郎を使者として、浜松城の家康へ送ります。

塩谷五八郎は、武田軍は徳川、織田両軍を引き出して決戦に出ようという腹であるに違いなと言います。家康は塩谷五八郎に大鉄砲二挺と足軽五人をつけて長篠城へ送り返しました。

 

「長篠城仕寄戦術」

仕寄作戦とは、武田軍が竹束を積み重ねた仕寄台を作って城内からの鉄砲玉を防ぎながら近づき、鉤のついた縄を引っ掛けて塀や土塁を引き崩そうとしたことを指しています。

勝頼が率いる武田軍団は一挙に南下して酒井忠次が守っている吉田城(豊橋市)を包囲します。織田軍が到着すると、城を守っている織田、徳川連合軍のほうが有利に立つことになりますが、武田軍の戦法は、一丸となってこれを撃破することにありました。川中島や三方ケ原の合戦のようなスケールでなされた戦いでのみ大勝利が得られると考えていました。武田軍は三日後、徳川軍からの追撃を誘うように吉田城から引き揚げます。しかし、徳川軍は城に籠ったままで出ようとはしませんでした。

山本勘助の子、鉄以が京都方面の情報を持って参上しました。織田信長は鉄砲と硝石、鉛を掻き集めており、鉄砲にはくれぐれも用心なされるように、と伝えますが、勝頼は、鉄砲で馬に勝てるのか、またこの梅雨では鉄砲は役に立たないだろう、と考えます。

一方、家康は岐阜城の信長へ小栗大六を使者として送り、加勢を懇願します。鉄砲を使うつもりの信長は梅雨を明けるのを待つつもりでしたが、小栗大六の話を聞いて、梅雨を恐れず、鉄砲だけに頼らず出兵する決意をするのでした。

武田軍は長篠城に向かって全面的な攻撃を開始しました。雨が降り続いていました。.次々と曲輪が落とされて行きます。一方的に攻められているこの苦境を一日も早く徳川家康と織田信長に知らせて、援軍を頼む以外に道はありませんが、夜陰に乗じて大野川か寒狭川に入って対岸に泳ぎ着かなければなりません。家来の中から、水練に秀でたる者として鳥居強右衛が選ばれました。

貞昌は強右衛門に、城の運命がかかっている使者の役を務めるよう、頼み込むように言うのでした。

 

 

鉄砲を本格的に使った有名な長篠の戦いの始まりです。学校の歴史だと、単純に戦いが始まり、そして近代的な武器をいち早く活用した信長の大勝利、というだけで終わるのですが、現実は、そこに行きつくまでのいろんな経緯と、そして両軍の駆け引きがありました。華々しい合戦が始まるまでには、まだ少し長篠城を巡る凌ぎ合いが続きます。

 

 




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