【夜日記】映画「君の名は。」レビュー | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-
2016年10月13日(木) 22時30分00秒

【夜日記】映画「君の名は。」レビュー

テーマ:読んだ本や観た映画

 

++++注意:これから観る人は読まないでね。++++

 

 

 

++++注意:これから観る人は読まないでね。++++

 

 

 

++++注意:これから観る人は読まないでね。++++

 

 

 

 

(注:かなりの長文です。お暇なときにどうぞ。)

 

 

 

少し前のことになるが、

新海誠監督のアニメ映画

「君の名は。」を観た。

 

 

「シン・ゴジラ」はとても良かった。

 

 

、、ほどなくして、

「君の名は」の存在を知った。

 

 

聞くと2つとも、

「2011年の震災」に

関わる映画だという。

 

 

新海誠監督は、

2011年の震災後にこの映画を作り始め、

5年経った今年、公開にこぎ着けた。

 

 

62年前の1954年、

初代「ゴジラ」が公開された同じ年に、

「君の名は」という、

本作とは無関係のドラマ映画が公開され、

興行成績を競い合ったそうだ。

 

 

何の因果か。

 

 

はたまた単なる偶然か。

 

 

ぼくは実はこれが、

もしかしたら偶然ではない、

というあくまで「強引な作業仮説」を引くことで、

アニメ映画「君の名は」を

「語り起こして」みようと思ったのである。

 

 

1954年の初代「ゴジラ」は、

シン・ゴジラを観た翌週、

ビデオ屋で借りて観た。

 

 

1954年といえば、

終戦から9年、

東京大空襲から9年、

広島・長崎への原爆投下から9年である。

 

 

 

じつは初代ゴジラの監督の、

円谷英二という人は、

「日本の特撮の父」と言われる人で、

彼は太平洋戦争中、

「戦意高揚映画」を作っていた。

 

 

つまり「国策」として、

日本人が、「よーし戦争をがんばるぞ!」

と思えるような、

プロパガンダ映画を撮っていたのだ。

 

 

その円谷が戦後に現場に戻って、

最初に撮ったのが、

「ゴジラ」だった。

 

 

前回の記事でも説明したが、

「ゴジラ」は、

日本に落とされた2つの原爆の犠牲者、

および都市大空襲の犠牲者への、

「追悼映画」である。

 

 

「あの戦争で死んだ者たち」を、

「あの戦争を生き残った者たち」が、

「彼岸」に送るための、

「国家的鎮魂の儀礼」として、

あの映画は作用した。

 

 

放射能と共にゴジラが東京湾に沈むとき、

「人類を滅ぼす最終兵器とその考案者」も、

共に沈んでいった。

 

 

円谷英二が、

戦意発揚映画を作った戦時中に何を考え、

終戦の日に何を思い、

おそらくは世間から白眼視もされただろう、

敗戦後の9年間に、何を思ったか、

ぼくの知る限りその記録は残されていない。

 

 

というより、

戦意高揚、一億玉砕から、

天皇の人間宣言、墨塗の教科書、

民主主義万歳、さらに共産化の脅威、

という、ジェットコースターもびっくりの、

あの時期の日本の空気の変遷を

くぐり抜けた人たちの、

「簡潔にして明瞭」な説明など、

原理的に存在しないと思う。

 

 

 

むしろあの世代の人々を見ていると、

「あの経験が何だったのか」を、

理解し説明するための、

「自己治癒」のために、

残りの一生を費やしている感じすらする。

 

 

三浦綾子しかり、

養老孟司しかり、

水木しげるしかり、

鶴見俊輔しかり。

 

 

「もっとも大切なことは、言葉にならない。」

ということを、皮膚感覚で知っていた、

最後の世代が戦中世代であり、

その親に育てられた団塊世代も

どこかでうっすらと、

そういう感覚を持っている。

 

 

「歯切れの良い言葉」や、

「威勢の良い強者」や、

そういった諸々に対する、

「ガット(内蔵)レベルの懐疑心」

というものが、残っている。

 

 

その世代が現役を退いたのが、

2012年以降ぐらいからで、

それと「日本の空気」が、

(ぼくの個人的な意見としては)

怪しげな、とても危うい方向に、

振れていったのが同期している、

ということも、たぶん偶然ではない。

 

 

円谷英二に戻る。

 

 

彼はそのような渦の、

まさにど真ん中にいたわけなので、

それこそ「言葉にならない」諸々を、

脳や皮膚や内臓いっぱいに抱えていたわけだ。

 

 

その「言葉にならなさ」を、

彼は「ゴジラ」に、

そして後に「ウルトラマン」に、

ぶつけ、思いを託した。

 

 

ぼくにはそう見える。

 

 

一方、1954年の「君の名は」に関しては、

まったく無知です。

 

 

何も知りません。

 

 

「男女がなかなか逢えない話」

というだけはなんとなく分かります。

 

 

Wikipediaで調べて驚いた。

 

 

東京大空襲の焼夷弾が降り注ぐ中、

たまたま出会った男女が命からがら、

銀座まで逃げる。

 

 

そこで「生きていたら半年後に会いましょう」

と約束して、分れる。

 

 

その後すれ違いを繰り返し、

1年半後に、やっと会えた二人は、、、

という筋書きらしい。

 

 

これを知って、書きながら、

「サブイボ」が立った。

 

 

まさに62年前の「君の名は」もまた、

62年前の初代「ゴジラ」と同じく、

ある意味で太平洋戦争の

犠牲者と生存者に捧げる映画だったのだ。

 

 

あの頃の日本人は、

「向こうに行ってしまった者たち」と、

「こちら側に生き残ってしまった者たち」の、

溝を埋めるということが、

集団的な無意識のニードだったように思う。

 

 

たぶんこれは同じ戦後の傷を癒す映画の中でも、

小津安二郎の「秋刀魚の味」の系譜に連なる。

 

 

「戦争後、平和に生きている平和な庶民」を描くことで、

その日常に透けて見える「戦没者」たちを、

真正面から言及することなく、

追悼し、感謝し、振り返り、

そして前を向こうとしたのだ。

そのような「自己治癒的な日本の自画像」としての、

戦後の鎮魂歌が、小津安二郎作品であり、

「君の名は」だったのではないだろうか。

 

 

「君の名は」は、

そういう映画だったのだ。

 

 

新海誠の「君の名は」もまさに、

「シン・ゴジラ」が、

東日本大震災を真正面から描いたのに対し、

それに直接言及することなく、

 

「あの日に失われてしまったもの」

 

「あの日に失いたくなかったもの」

 

「あの日に失い、そして忘れてはならないもの」

 

「あの日が僕たちに教えてくれたもの」

 

を語り継ごうとしている。

 

 

それは直接的描写ではなく、

たとえば日本の田舎の風景を通して、

たとえば十代の淡い恋心を通して、

たとえば、

「千年に一度のあの津波を、

 未然に危機管理し、

 被害を最小限に食い止めることが、

 出来たなら、日本はどうなっていたか

 ぼくたちの今日はどう違っていたか。」

そういったことを語る事によって、

間接的に「3.11」を「彼岸」に送る、

「追悼アニメ」だとぼくは解釈している。

 

 

「シン・ゴジラ」が父性的ならば、

「君の名は」は母性的だ。

 

 

「シン・ゴジラ」は「前を向け」と言い、

「君の名は」は、失われた者たちにそっと寄り添う。

 

 

「君の名は」の内容については今回、

触れないことにします。

 

 

ネタバレを避けるためではありません。

 

 

疲れたからです 笑。

 

 

ただひとつ言わせてもらえば、

「君の名は」は、

江川達也も言っていた通り、

「ちょっと観客にこびすぎている」と、

ぼくも思った。

 

 

 

なんだろうね。

 

 

 

もうちょっと「余韻を残す」

終わり方でも良かったかなと。

 

 

 

説明過剰というか、

あまりに親切すぎるというか。

 

 

これはお笑いのネタにも言えるが、

ちょっとでもいいから、

観客を突き放す要素が、

ある作品のほうが個人的には好みだ。

鑑賞者の知性を信頼してくれている作品、

とぼくは好意的に受け止める。

 

 

「君の名は。」に関しては、

ゴリゴリの青春楽曲、

ゴリゴリの青春胸キュンラブコメ要素、

ゴリゴリのわかりやすいハッピーエンド

ゴリゴリの盛り上げ方。

 

 

だんだん、

「ん?なめられてるのかな?」

と思ったりして。

 

 

こういうのがウケるのも、

やはり時代なんでしょう。

 

 

べつに批判するつもりは毛頭ありませんが。

 

 

ただ、「中高生が喜ぶ要素」が、

200パーセント「全部盛り」で入っていて、

ラーメンで言うと、

チャーシュー、角煮、煮卵、メンマ、鶏そぼろ、つくね、

特製麻婆あんかけ、焦しにんにくネギ、自家製ラー油、、、etc

みたいなのがふんだんに乗っかってて、

もはや麺が見えない状態です。

 

 

「中高生は仕方ないにしても、

 いろんなものを見て来た大人が

 これで泣くのは、

 ちょっとハズいなぁ、、、」

と思ってたら、

映画館で横に座っていた40代ぐらいの女性が、

ハンカチで鼻をかむ勢いで号泣をしていて、

「マジか。」

と思いました。

 

 

なんてピュアな方なんだろう。

 

 

いや、バカにしてるんじゃないんです。

 

 

なんていうんだろう。

 

 

まったく問題ない。

 

 

本当に。

 

 

まったく、全然オッケー。

 

 

「君の名は。」万歳!

 

 

本当に大丈夫。

 

 

、、、大丈夫なんだけど、

 

 

なんていうんだろう。

 

 

あまり大きな声では言えないけど、

 

 

「アルマゲドン」で号泣するような恥ずかしさ。

 

 

「タイタニック」が過去最高の映画、

っていう恥ずかしさ。

 

 

中学のとき、好きな音楽は、

「B'zとZARDとWANDS」とか言っちゃう恥ずかしさ。

 

 

好きなジャニーズタレント「キムタク」

って言っちゃう恥ずかしさ。

 

 

、、、

 

 

 

全然いいんだよ、本当に。

 

 

何の問題もない。

 

 

いや本当に。

 

 

ぼくも「ベタ」大好きだし。

 

 

ただ、「擦り寄ったねぇ、、売れる方に、、。」

っていう感じはすごくある。

 

 

 

「どんだけ擦り寄るんだ!」という。

 

 

「横腹がかゆいときの猫か!」っていう。

 

 

 

作り手の人たちが、

何か一言言いたくなる理由は、

すごーくよく分かる。

 

 

「節操がない」というか、

「鑑賞者はそこまでバカじゃないぞ」とか、

同業者なら、

一言言いたくなるなー。

 

 

 

なるだろうなー。

 

 

 

でも、「売れてる」からねぇ。

 

 

 

それが正義だからね。

 

 

 

そういう世の中だからね。

 

 

 

仕方ないね、っていう。

 

 

 

そういう話。

 

 

 

何の話だ?

 

 

 

結局、この映画は、

 

 

 

良かったのか、

 

 

 

悪かったのか。

 

 

 

結論から言えば、

とてもいいですよそりゃ。

 

 

そんなことは前提でゴタゴタ言ってるんです。

 

 

「2016年は久しぶりに邦画の当たり年だった」

と未来の人は語るでしょう。

 

 

果たしてここで潮目が変わり、

来年からの邦画も佳作、傑作が続くのか、

はたまた一過性のものなのか、

今後も注視していきたいと思います。

 

 

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