2016/05/12 journal | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-
2016年10月14日(金) 07時00分00秒

2016/05/12 journal

テーマ:デボーション

 

■タイトル:

 

人は外部に目に見える神を欲するが、

神は人を変革して内面に神の似姿を欲する

 

 

■聖書箇所:

 

出エジプト記32章4節 

 

彼(アロン)がそれを、彼ら(イスラエルの民)の手から受け取り、鋳物の子牛にした。彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。

 

 

有名なアロンの金の子牛の箇所である。

 

 

モーセがシナイ山で主からの言葉を受け取っている間、

目に見える指導者がいなくなって不安になったイスラエルの民は、

アロンに「目に見える神」の必要性を迫る。

 

 

その誘惑に負けたアロンは、

民から集めた金の耳輪を溶かして子牛を作った。

 

 

主とモーセはこれに激怒する。

 

 

「民全体を滅ぼしモーセ一人からまたやり直す」

と主は言われるが、モーセのとりなしによって、

さばきは三千人の犠牲にとどまった。

 

 

この箇所で、非常に印象的なもうひとつの節がある。

 

 

15-16節 

 

「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。」

 

 

アロンは民衆の圧力に負けて、金の子牛を作った。

 

 

モーセは神の作った「あかしの板」を受け取った。

 

 

このふたつは対照的である。子牛と、

 

 

子牛は偶像であり、

私たちが「外部に作る神」である。

 

 

私たちは不安に駆り立てられ、

目に見える神を外部に作りたがる。

 

 

教会にとってそれが新しい教会堂になることもあり得る。

 

 

出世や年収やステータスがそれになることもある。

 

 

見栄えの良い生活をすること、

子どもの学歴、ファッション、持ち物、

仕事自体、お金、お酒、ギャンブル、

セックス、ポルノ、、、、

 

 

あらゆるものが「偶像」になり得るが、

それらは、「外部に作る目に見える神」と言える。

 

 

かの金の子牛の系譜に連なる。

 

 

主はそれを憎まれる。

 

 

一方、「板」は、

神の作であったと聖書に書いてある。

板を主が作り、神の字で、神の心を、

その板に書いたのである。

 

 

これは何を意味しているか。

 

 

神は私たちの外部に「目に見える神」を作りたいのではなく、

私たちの内面に、「神の似姿」を作りたいのである。

 

 

板は、その教えを人々が守り、

神ご自身の意図される人間が完成されるときに

はじめて目的を達成する。

 

 

現代における聖書であり、預言者の言葉であろう。

 

 

人間は外側に目に見える神を欲するが、

神が欲するのは、人間の内側に作られる

神ご自身の似姿である。

 

 

私たちは金を加工しようとするが、

神は私たち自身を加工して、

イエスに似た人物を作りたいのでる。

 

 

ヘブル書10章14-16節 

 

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」

 

 

今も私たちは「子牛か板か」の選択を日々迫られている。

 

 

外部に存在する心の支えか、

もしくは自分自身を主に変革してもらい、

心の板に神の心を刻んでいただく人生か。

 

 

後者を選びたい。

 

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