【夕刊・映画評】シン・ゴジラが凄い(超長文です) | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-
2016年08月14日(日) 17時00分00秒

【夕刊・映画評】シン・ゴジラが凄い(超長文です)

テーマ:読んだ本や観た映画

 

シン・ゴジラを見た。

 

 

衝撃的な内容だった。

 

 

 

+++++ネタバレ要素を含みます。+++++

 

 

 

+++++ネタバレ要素を含みます。+++++

 

 

 

+++++ネタバレ要素を含みます。+++++

 

 

 

 

ネタバレ要素があるので、

映画館に行く予定の人は、

読まない方が良いよ。

 

 

 

「べつに関係ねぇ」

って言う人は、

読んでも良いよ。

 

 

「シン・ゴジラ」

 

 

 

、、、本当に久しぶりに、

「映画館で見た映画」だった。

 

 

 

なぜこの映画を映画館で見たくなったのか、

上手に説明することは難しい。

 

 

 

ぼくは「ゴジラファン」でも、

「エヴァンゲリオンファン」でもない。

(シン・ゴジラの監督はエヴァンゲリオンの、

 庵野秀明監督である。)

 

 

 

しかし、ぼくが良く参考にしている

映画評論家のサイトを見たり、

ネット上のいくつかの評判を見て直感した。

 

 

 

「これは、何年かに一度あるかないかの、

 ぜったいに映画館で見ておくべき映画だ。」

 

 

 

直感は的中した。

 

 

 

ものすごい映画だった。

 

 

 

「5年に1本」の映画だ。

 

 

 

「5年に1本あるかどうかの邦画(日本映画)」ではない。

「5年に1本あるかどうかの映画」である。

 

 

 

この作品は間違いなく大ヒットするし、

いろんな映画賞を取るだろうけど、

本当は日本の映画賞ではなく、

世界的に評価されてしかるべきものだ。

 

 

 

そしてこれも予言するけど、この先数ヶ月、

「シン・ゴジラについて語る」タイプの投稿記事が、

雨後の竹の子のように乱発するだろう。

 

 

 

すでにその予兆があるし、

このブログ記事もそのような、

「シン・ゴジラについて語る」

投稿記事に他ならない。

 

 

 

なぜか。

 

 

 

「シン・ゴジラ」という作品は、

それ自体がひとつの神話体系であり、

鑑賞者が「それについて語らずにいられない」

と言う構造を有しているからだ。

 

 

 

どうしても「語ってしまう」映画なのだ。

 

 

 

村上春樹の小説に近い。

「1Q84」を読んだ後に、

「さきがけ教団」が意味するものは何か、

「月がふたつある世界」は何の比喩なのか、

とか語りたくなる。

 

 

 

あれと同じである。

 

 

 

あまりに情報量が多いので、

ぼくも「語りきる」ことは不可能である。

 

 

 

それどころか、

二割語ることが出来たら、

現時点では御の字だろう。

 

 

 

でも、果敢に挑んでみよう。

 

 

 

自らがこの「神話」を咀嚼する作業として。

 

 

 

このシン・ゴジラは、

庵野監督の、庵野監督による、

どこまでも庵野秀明を突き通した映画である。

 

 

 

後で知ったんだけど、

庵野監督は2012年12月、

エヴァンゲリオンQの公開のあと、

すべてを出し尽くし鬱状態に陥った。

曰く「僕は壊れてしまった。」

 

http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/31/annno-hideaki-godzilla_n_6982366.html

 

 

 

その翌年、悩んだ末に「ゴジラ」の制作を受け入れ、

今年完成したのが「シン・ゴジラ」だ。

 

 

そして、この作品は「凄い」。

主演の竹野内豊も言っているが、

「精神がぶっ壊れるぐらいの人でないと、

 こんなモノは作れない。」

 

 

 

さきほどぼくは「エヴァンゲリオンファン」ではない、

と言ったが、鑑賞したことはある。

 

 

 

一時期、レンタルして見たことがあった。

 

 

 

動機は、日本の現代史を二分するであろう、

メルクマークとなる「1995年以降」を象徴する作品として、

エヴァンゲリオンはしばしば引き合いに出されていたからだ。

特に東浩紀などの思想家が良く書くんだけど、

原典を一度たりとも見たことがないと、

それらのテキストを理解できないと思ったから。

 

 

 

エヴァンゲリオンについてはここでは書かない。

 

 

しかし、「巨人の星」的なスポ根物語、

その後の「ドラゴンボール的」な、

成長と出会いの物語に代表される、

「個の意志」および、

その土台となる「直線的に発展する社会」

といったものが、解体され意味を失ったポストモダンの世界で、

世界に翻弄され続ける主人公が、

世界の側の都合によって一方的に神話の一部に織り込まれていく、

という物語からは、「現代の神話」を紡ごうとしている、

「詩人の姿」を庵野監督に感じた。

 

 

 

村上春樹がしようとしていることと、

とてもよく似ている、

というのがぼくの見立てである。

 

 

 

で、

 

 

 

その庵野監督の「シン・ゴジラ」は凄かった。

 

 

 

いろんな切り口があるとは思うが、

あえて一つだけに絞って語る。

 

 

 

大風呂敷を広げすぎると、たためなくなるから。

 

 

 

それは「3.11と原発事故」の鎮魂(レクイエム)である。

 

 

ここでいう「鎮魂」は、

文字通り「死んだ魂を慰め鎮める」といった、

アニミズム的な発想ではない。

 

 

むしろ遺された生きている側の我々が、

失われた者たちの「失われたという事実」と、

折り合いを付ける通過儀礼、

とでも定義した方が良い。

 

 

 

以前、内田樹がたしかブログにおいて、

1954年の「初代ゴジラ」は、

日本に落とされた二つの原爆の犠牲者に対する、

鎮魂歌なのだ、という解釈をしていて、

なるほどなぁ、と思った。

 

 

 

初代ゴジラが発表された当時というのは、

敗戦からまだ10年も経っていない。

 

 

 

ぼくのおじいちゃんが、

ぼくぐらいの年齢だったころだ。

 

 

 

その頃の日本というのは、

まだ戦争の傷から立ち直っておらず、

「国家的トラウマ」を抱えたままだった。

 

 

広島と長崎に落とされたふたつの原爆は、

大きな「国家的なトラウマ」を日本に遺した。

 

 

先のオバマ大統領の平和祈念公園訪問で、

たくさんの人が涙を流したのは、

その「国家的トラウマ」は、

まだ「かさぶた」にすらなっておらず、

ちょっと絆創膏をはがすと、

「うずく古傷」であったことを、

私たちに思い出させた。

 

 

 

じつは昨今の、

集団的自衛権の問題の紛糾だとか、

憲法改正の問題だとかも、

この「うずく古傷」に端を発している、

というのがぼくの見立てである。

 

 

 

それほどの敗戦だったのだ。

 

 

 

個人の人生も国家の歩みも、

「あまりにも大きな傷」を負うと、

そのあとの人生すべてをかけて、

その傷の「あがない」をすることになる。

 

 

安倍内閣を見ていて、

強くそう思う。

 

 

反対に鳥越さんみたいな左派の人を見ても、

強くそう思う。

 

 

今のロシアの覇権主義は、

第二次世界大戦で、

1000万人の死者を出したトラウマだと、

佐藤優が分析していて、

とても納得がいったのを覚えている。

 

 

 

日本にとっても、「戦後」という70年の歩みは、

とりもなおさず、

「あの敗戦とは何だったのか」

「この傷とは何だったのか」

ということを内省しつつ、

ときに古傷が痛んで反応し、

ある人は手負いのクマのように暴力的になり、

ある人はあまりの傷の大きさ深さに無気力になり、

虚脱状態に陥る。

 

 

 

だれひとり、有効に、

「あの死者たちは何だったのか」

を語ることが出来ない。

 

 

 

東京大空襲、

ふたつの原爆の投下、

沖縄での地上戦、

巨大な処刑室として沈んだ戦艦大和、、、。

 

 

 

これらを、

「アメリカの戦争犯罪」と断罪するのもひとつの立場。

「いや、日本の自業自得。当時の国家のトップが悪い」

というのもひとつの立場。

「いやいや、私たち国民とマスコミが熱狂した結果、

 世論に押される形で国家が暴走したんじゃないか。

 市民が全員間違ったんだ。」

というのもひとつの立場。

 

 

しかし、誰に「鬼畜」の役割をなすりつけても、

すっきりしない。

 

 

第一、

誰も「鬼畜」でもなければ、

「聖人」でもない。

 

 

 

ぼくたちのおじいちゃん達は、

きっと一部の左翼的な人がいうような強姦魔ではないし、

一部の右翼的な人たちが言うような「誇り高き勇者」でもない。

 

 

ぼくやあなたのような、

びっくりしたり、怖くなったり、

ときどきセコい嘘をついたり、

でも家族を守りたかったり、

正しいことをしたかったり、

国の未来を心配してみたりする、

「普通の人たち」だったのだと思う。

 

 

ナチスの収容所で数万人を殺した、

かのアイヒマンですら、

連合国軍が拍子抜けするほどの

「小役人」だったのだから。

 

 

そして何より、

誰に責任をなすりつけても、

いなくなった300万人の死者は、

だれひとり帰ってこない。

 

 

内田樹は、

この「国家的トラウマ」に対して、

ひとつの解毒剤として、

あるいは原爆の死者に対する、

鎮魂歌として作用したのが、

「ゴジラ」だった、と分析している。

 

 

 

ご存じの方も多いと思うが、

ゴジラは、

「太古ジュラ紀の生物が、

 水爆実験によって突然変異をした、

 巨大生物」であり、

その動力は核分裂であり、

その攻撃は放射能を帯びたビームである。

 

 

 

内田樹は、

この「ゴジラ」こそが、

広島、長崎の「トラウマの化身」である。

そのゴジラが日本の科学技術によって開発された、

最終破壊兵器の「オキシジェン・デストロイヤー」によって駆除さる。

 

 

 

日本はこの最終破壊兵器を、

ゴジラに対して使った後、

人類がこれを軍事利用することから守るため、

兵器に関するすべての情報を廃棄し地上から抹殺する。

 

 

かくしてゴジラと、

最終破壊兵器は、

東京湾に沈むのである。

 

 

「核」を使ってしまい、

その後も外交カードとして保持し続けるアメリカに対する、

するどい批判になっていると共に、

何より、広島、長崎の人々の「祈り」を、

「オキシジェン・デストロイヤー」と共に、

東京湾に沈んだゴジラは現わしている、

というのが内田樹の分析だった。

 

 

 

なるほどねぇ、

 

 

 

とその時は思った。

 

 

 

今回シン・ゴジラを見ながら、

内田樹のかの記事が脳内によみがえってきた。

 

 

 

そして、初代ゴジラとは、

・動力が原子力であること。

・東京湾に突然現れること。

を除くとおよそあらゆる設定を微妙に変えた、

「シン・ゴジラ」は、

見事に2016年の現代性にマッチした神話として、

再構成されているのである。

 

 

 

竹野内豊の表現を借りるなら、ほんとうに、

こんなことは、精神がぶっ壊れるぐらいの人でないと、

考えられない。

 

 

 

「日本の物語的想像力の底力」を、

見せつけられたように思った。

 

 

 

まず、「シン・ゴジラ」は、

各国が海洋に不法投棄した核廃棄物を食べて、

成長、「自己進化」した。

そしてその動力は当然、核分裂である。

 

 

 

最初アクアラインの上で原因不明の爆発が起きたとき、

官邸、霞ヶ関はパニックに陥る。

役人や政治家達は、「想定外」という台詞を乱発し、

「あれが生物なのかそうでないのか」

ということを閣議決定する間に、

ゴジラは上陸する。

 

 

 

それをテレビで見た総理大臣は、

「生物説」を強制了解させられる。

 

 

 

2011年の福島原発事故の「再上演」である。

 

 

 

庵野監督は明らかに3.11を意識している。

 

 

いや、意識してるなんてもんじゃない。

 

 

エンディングまで見ると分かるんだけど、

今回の「ゴジラ」は、「福島第一原発」が、

生物の姿をまとって東京に上陸したら、

というパニック映画としても鑑賞可能だ。

 

 

シン・ゴジラを見ながら、

我々は3.11当時の日本で見たものを、

もういちどみせられる。

 

 

デジャヴュだ。

 

 

「日本の原風景」と言ってもいい。

 

 

津波、原発建屋の爆発、放射能汚染、

あらゆることが、眼前で起こっているのだが、

「マニュアルにない」ことを考える訓練が出来ない、

日本の官僚機構は完全に機能不全に陥る。

 

 

対策本部で総理にレクチャーをする中年の官僚は、

市民のツィッターのつぶやきを、

メモ用紙に鉛筆で書き写して、

その紙を読み上げている。

 

 

総理の記者会見は、

文書と会議を通さなければ開くことが出来ず、

内容を変更することも出来ない。

 

 

その間にも、

ゴジラは上陸し、破壊を続けている。

 

 

 

学者たちは、

「あの大きさの自重を、

 あの骨格で支えられるかどうか」

について議論している。

 

 

学者が総理に報告する。

 

 

「結論が出ました。

あの水生生物は理論上、

自重を支えられないので、

歩くことはありません。」

 

 

、、、という報告中に、

ゴジラは歩き始める。

 

 

 

、、、最後は、

憲法9条の問題が出てくる。

自衛隊に戦闘行為をさせていいのか。

 

 

集団的自衛権の「怖さ」も描かれる。

自国の防衛を他国に肩代わりしてもらうということの、

容赦ないコストとは何か。

 

 

結局最後はアメリカに頼るのか。

 

 

自国だけで解決出来るのか。

 

 

面白いのは、

当初「徹底的な弱点」として描かれる、

「誰一人決断しない」日本の官僚機構が、

後半には「長所」の側面を見せ始めることだ。

 

 

庵野監督は意図的に

「個の能力」を日本側から排除し、

同盟国アメリカ側には「個の能力」を引き立たせる。

 

 

 

コントラストだ。

 

 

 

作中に登場する、

「次のリーダーがすぐ決まるのがこの国の強みだな」

という台詞がすべてを物語っているが、

日本のこの強さは、弱さとトレードオフなのである。

 

 

 

養老孟司が震災後に、

「世界が賞賛する、被災地での秩序と礼儀正しさ」

と、

「世界ががっかりする、危機対応のマズさ」

はトレードオフだ、

と言っていてうなったことがある。

 

 

 

本当にそうで、

おそらく日本がアメリカのように、

力強いリーダーによって不測の事態に対応する強さを持っていたら、

被災地で自主的に配給の行列を造ったりする集団性は、

失われるだろう。

 

 

 

すべては「良い面と悪い面がある」

社会のこの真実を庵野監督は知っている。

 

 

 

この映画は痛烈な日本批判であり、

同時に強烈な日本への「エール」でもある。

 

 

 

慢心してはいけない。

 

 

 

でも悲観することもない。

 

 

 

ぼくもそう思う。

 

 

 

ゴジラに話を戻す。

 

 

 

最後は国連安保理が、

核兵器を使ってゴジラを滅却することを決めるが、

日本はこれに抵抗する。

 

 

 

「この国に三度目の核兵器は使わせない。」

 

 

 

最後までは言わない。

 

(言ったようなものだけど、

 まぁここまで読んだ人からは、

 文句も言われまい。)

 

 

 

 

、、、ここからは、

よりパーソナルな感想。

 

 

 

東京を破壊しながら、

放射能をまき散らし、

孤独に歩くゴジラを見ながら、

「この生物は何を欲しているのか」

と思った。

 

 

きっと映画を見た誰もが思うことだ。

 

 

 

 

そして、思う。

 

 

 

ゴジラはいったい、

何を象徴しているのか。

 

 

 

神話学者でなくても、

考える。

 

 

 

庵野監督にすら明確な答えはない、

というのがぼくの見立てだ。

それは万人の解釈に開かれている。

 

 

 

ぼくはゴジラを見ながら、

そこに「哀しみ」を見た。

 

 

核分裂しながら破壊を繰り返すゴジラは、

圧倒的な「哀しみ」を背負っている。

 

 

 

そのとき思った。

 

 

 

あぁ、これは、「3.11で失われたもの」の象徴なのだ、と。

 

 

 

村上春樹が1Q84のときのインタビューで、

2001年の9.11以降、世界が、

「あり得たはずのもう一つの世界」から分岐して、

「パラレルワールド」に迷い込んだような感覚を持っている、

と語っていた。

 

 

 

じつは3.11もまた、日本人にとって、

「あの震災がなければあり得たはずの2016年の日本」

「あの震災がなければあり得たはずのもうひとつの人生」

というパラレルワールド的な問いを突きつけてきた、

とぼくは思っている。

 

 

 

もしあの震災がなければ、

もしかしたら未だに民主党政権が続いているかも知れない。

間違いなく福島第一原発は発電を続けていただろう。

何より、あの震災で家族や友人を失った多くの人、

住む場所を失った人、仕事を失った人、

それらの人々は、「パラレルワールド」を、

生き続けているような感覚を持っているのではないか。

 

 

 

ぼくもまた、いろんな意味で、

そのような日本人のひとりである。

 

 

 

では、私たちはあの震災で何を失ったのか。

 

 

 

そして、もし何かを得たとしたら、何を得たのか。

 

 

 

 

いや「得損ねた」としたら、

なにを得損ねてしまったのか。

 

 

 

 

それをゴジラは、日本人に思い出させる。

 

 

 

 

もう一度、あの「分岐点」に、

私たちを立ち戻らせる。

 

 

 

そしてあのときはビビってしまって見えなかった、

いろんなことが見えてくる。

 

 

 

私たちの弱さ、

そしてその弱さこそが、

強さに他ならないこと。

 

 

 

スクラップアンドビルドで、

生き残り続けた日本の伝統を思い出すこと。

よりしなやかな生き方を模索すること。

 

 

 

そういったことを、

ゴジラは「哀しみの具現化」として闊歩しながら、

私たちに思い出させる。

 

 

 

ゴジラは破壊行為をしながら、

泣いているようにも見える。

 

 

 

きっと70年前の広島、長崎のこと、

特攻隊で死んでいったおじいちゃんたちのこと、

空襲で焼かれた町々のこと、

5年前の東北の沿岸の破壊、

住めなくなった福島の土地の哀しみを背負い、

それを「フィクション」という衣をまといながら、

血を流しながらゴジラが泣いてくれているように思った。

 

 

 

涙は心に付ける傷薬である。

 

 

 

かの原爆と原発のトラウマから完全に癒える日など、

きっとこの先も来ないかも知れない。

 

 

 

しかし虚構の中とはいえ、

一時的にでも「物語の力」で、

「日本の破壊者として逆説的に日本を慰撫するゴジラ」は、

1954年の初代ゴジラの伝統を正当に継承している。

 

 

 

他にも多くのテーマが、

シン・ゴジラには隠されている。

 

 

かつて「大日本人」という映画で、

松本人志が撮りたかったテーマを、

圧倒的な力で描ききっている。

 

 

また、村上龍が、

「半島を出よ」で描きたかったテーマも、

内包している。

 

 

ゴジラの姿は「エヴァンゲリオン」の使徒そのものだし、

庵野監督がファンだという「踊る大捜査線」への、

オマージュ要素も随所にちりばめられている。

 

 

 

「物語的想像力」というのは、

現実の世界が煮詰まったときに、

力を発揮する。

 

 

ジョーゼフ・キャンベルという神話学者は、

宗教がその力を失った現代において、

映画監督や小説家が、

物語的想像力によって現実の行き詰まりを超克する、

という役割を担っている、と看破している。

 

 

 

そのとおりだ。

 

 

 

ぼくはどちらかというと宗教的な分野に携わる人間として、

そのような時代に「現実の行き詰まりを超克する」ために、

機能する「(広義の)宗教家」でありたいと、

いつも思っている。

 

 

 

「物語的想像力」と、

現実の行き詰まりの超克の関係を示す、

ひとつ例を示そう。

 

 

 

アメリカという国は、

「地平を広げるというパラノイア」にとりつかれた国だ。

United States(合衆国)と、

United Nations(国連)は英語にすると似ている。

アメリカから見たとき、最初13州からはじまり、

西へ西へと開拓し、ハワイ、アラスカを加え、

50州までになった。

 

 

 

実はその「開拓」は終わっていなかった。

現在200近い加盟国をもつUnited Nationsというのは、

アメリカがその民主主義の旗の下に、

世界全体を「平定」していく、

という物語の内部に位置づけられる。

 

 

 

当然、太平洋戦争もそうだ。

 

 

 

ベトナム戦争もそう。

 

 

 

ところが、冷戦終結以降、

アメリカは「仮想敵国」を失った。

それまでのアメリカは、「ランボー」や「ロッキー」などの、

東側の「悪」と戦うアメリカンヒーローという映画が多かったが、

その「悪」は突如自壊し、ターゲットを失った。

 

 

そのころからである。

 

 

アメリカ映画に、

「宇宙人による侵攻」というモチーフが増えたのは。

 

 

アメリカは、「敵のイメージの崩壊」とともに、

それを鏡としていた「自画像」を

上手く描けなくなったのである。

 

 

そのときに造られた、

「アルマゲドン」

「インディペンデンス・デイ」

「コンタクト」などの作品群は、

アメリカ(および世界連合軍)VS外敵

というフィクションをでっちあげることで、

かろうじてアメリカの国家統合と、

アイデンティティクライシスを救った。

 

 

その後9.11が起こり、

また「ゲームのルール」が変わった。

 

 

そのあと、未だにアメリカという国は、

自らの自画像を上手く描けずにいる、

とぼくは見ている。

 

 

「アバター」や、

「アナと雪の女王」などの作品群は実は、

それに対するひとつの模索ではないだろうか。

 

 

多元主義の社会において、

どう「新たな普遍的価値」を見いだしていくか、

と、アメリカが必死にもがいているのである。

 

 

 

ことほどさように、

「物語的想像力」というのは、

「想像の共同体」をつなぎとめ、

そしてあるときは次のステージに移行するための、

イメージの役割を果たす。

 

 

 

日本に戻る。

 

 

 

日本は「外圧」によってしか変わることが出来ない、

と言われる。

 

 

 

近現代史を見ると、

確かにそれはそのとおりなのである。

 

 

 

次に日本が本当に変わるには、

富士山が噴火するのを待つしかないのか。

北朝鮮から核弾頭が飛んでくるのを待つしかないのか。

中国が総力戦を仕掛けてくるのを待つしかないのか。

IMFによる破産宣告と経済介入を待つしかないのか。

日本にテロが多発する日を待つしかないのか。

 

 

 

じつはこれらは貧困な想像力に基づく、

安っぽい発想で、「軍事ケインズ主義」にも通じる、

あぶない考え方である。

 

 

 

もちろん不測の事態に備える必要はある。

 

 

 

しかし、「ビルドなきスクラップ」を求める拙速さは、

国際連盟脱退に喝采を送った、

当時の日本人に近いメンタリティであり、

とても「危うい」。

 

 

 

外圧によってしか日本は変わらない。

 

 

 

しかし、「虚構の世界」の「虚構の外圧」によって、

人々に「変化のワクチン」を与えることは出来る。

 

 

 

こういう仕事というのは、

本当に大切だとぼくは思う。

 

 

 

庵野監督が「シン・ゴジラ」でしてくれたことは、

まさにそういうことである。

 

 

 

日本人が3.11以降5年間、何を考えてきたのか。

71年前の8月15日以降、何を考えてきたのか。

 

 

 

その足下を見つめ直し、

「焦点が定まらずひずんでいた、

自らの自画像」を結び直す

 

 

そのためのひとつの契機を、

「シン・ゴジラ」という映画は与えてくれる。

 

 

 

後記:

 

この記事、これまでで最長かもしれない。

 

 

新書なら軽く1章分ぐらいあるだろう。

 

 

書くのに2時間以上かかりました。

 

 

ゴジラがもう一回見れる時間じゃないか。

 

 

でも、得体の知れない達成感はあります。

 

 

読んだ人も「達成感」があるかもしれない 笑。
 

 

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