想像力の鍛え方【前編】
想像力っていうのは、
つまり知性なんだと思うんだよね。
「教養とは人の気持ちが分かること」
っていうのは養老孟司さんが言ってる言葉。
人の気持ちが分かることっていうのは、
つまり、「想像力があるということ。」
相手の立場になって考える、ということ。
皆さんの嫌いな小難しい表現を使うならば、
「相手の内在的論理を掴(つか)む」ということ。
これはもう、平たく言うと、
「頭の良さ」ということになる。
「頭の良さ」って何?
と訊かれたら、
僕は、三つ挙げる。
1 人の気持ちが分かること。
2 クリエイティブであること。
3 筋道を立てて話せること。
全く同じことを違う言い方をしてみる。
1 空気が読めること。
2 独創的であること。
3 論理的思考力があること。
さらに言い換えてみる。
1 相手の内在的論理を掴めること
2 良い問いを立てられること。
3 意味と意味の相関が把握できること。
1、3はただの言い換えだけど、
2が最後に「良い問い」になったのは意図的です。
創造力っていったい何?
という問題の答えは、
僕は「問いを立てる能力のこと」だと思うから。
本当の「創造」というのは、鬼才か何かのように、
突然「降りてくる」んじゃなく、
良い「問い」から生まれるというのが僕の持論。
創造はブラックボックスではない。
どんな「問い」をその人が持っているかが、
つまりクリエイティビティのなんたるかだ。
「良い質問をする」ということは、
その人の生産性に決定的な影響を与える。
ところが多くの人が指摘するように、
現行の日本の学校教育の中に、
「良い質問をする」は織り込まれていない。
問われているのは
「ひとつの問いに対するひとつの正解を導く」
ということ。
こうしてできた学校秀才が日本を導いているのだから、
今の日本のガバナンスとリーダーシップの在り様は、
「さもありなん。」
この教育をしていて、
独創性や緊急事態の柔軟な対応を求めるのは、
「魚屋で牛肉を買おうとする」行為だ。
この教育と受験システムで、
日本には本当のリーダーが育たない、
とか言ってる人というのは、
自分で塩を入れすぎた料理を食べ、
「しょっぱい、しょっぱい」と文句を言う人のようだ。
、、、
、、、
想像力の方に話を戻します。
「人の気持ちが分かる」ほう。
「相手の内在的論理を掴む」ほう。
「空気を読む」ほう。
「頭の良さ」っていうのは、
後天的に鍛えることが出来る、
というのが、これも僕の持論。
だから頭の良さを僕は問題にする。
僕は先天的な資質について問題にしない。
問題にする、ということは、
それを鍛えることができるということ。
この場合の頭の良さ、っていうのは、
偏差値とかの意味ではない。
大学入学時の偏差値の高さを、
生涯歩くための杖にするタイプの人は、
どこか本質的な部分で頭が悪いと僕は思う。
いわゆる「ずるがしこさ」によって、
権力の座に君臨し続けているタイプの人も、
どこか本質的な部分で頭が悪いと僕は思う。
こういう人は「頭が良い」と勘違いされやすいが、
これは知性とはまったく違う。
異常発酵したタイプの知性。
「それは味噌ではなく、
ただの腐った大豆ですよ」と思う。
現に食べた人がお腹を壊しているじゃないか。
じゃあ頭の良さって何なの?
という質問の、僕のいまのところの答えが、
上の3つ。
上の3つのうち、
本当は全部について書きたいんだけど、
今回は最初の一つについてだけ、
ものすごーく簡単に書きます。
「想像力」について。
人間だけが、自分という主体からいちど脱却して、
自分を誰かほかの人の立場において、
仮想的に思考することが出来る。
これは他の動物にはない。
獣医が言うんだから間違いない。
自分を相手の立場に置いて、
仮想的に思考すること、
これが「相手の内在的論理を掴む」ということ。
実はこれには、鍛え方がある。
いろんな方法があるけど、
今日から出来る方法を紹介します。
それは、「人の話を最後まで良く聞くこと」
え?そんなことで良いの?
と思うでしょう。
でも「そんなこと」が出来ている人は、
とても少ない。
世の中の人間の、5人に1人いるかどうか、だと思う。
、、、
相手が「もう話す必要がない」と思うぐらいに
人の話をおわりまで聞いた、
最後の記憶はいつですか?