1ドル80円に思う | シュンジの写真日記

1ドル80円に思う



中学時代にはテクノ音楽にハマっていたシュンジさん
YMOとか洋楽でもシンセサイザーバリバリに使っていた音楽を聴いていました。
でもYMOが散開(解散じゃなく)した後、テクノ熱はすっかり冷めてしまいました。

高校に入学して、バイト先の先輩がJazz喫茶に連れて行ってくれて
そこで当時最先端だったレーザーディスク(懐かしいね、どうも)で流れていたのが
この映像とは違いますが、A・Blakey&Jazz Messengersの来日公演の映像だったんですね。

チュニジアの夜だったと思うんですけど、もう衝撃的でね。
それまでバンドの真似事をしていたんですけど、シュンジさんはDrum叩いてました。
4畳半の部屋に新聞配達して貯めてたDrumセットを置いて、勉強そっちのけで叩いていたなぁ(笑
「あそこの子はグレた」
と、近所中の噂の種になっていたそうです・・・

で、こりゃあもうアート・ブレイキーに会いに行くしかねぇべ
と高校そっちのけでバイトして、語学を勉強すると親を騙していざNYへ行きましたよ。

当時のNYは日本製電気製品や自動車の経済摩擦で結構ジャパンバッシングされていたんですね。
バブルの始まる頃だったかな。
ツアコンのおばさんが、あの辺りは危ないから絶対行っちゃ駄目というのも聞かずに、薄暗いJazzのライブハウスに高校生がノホホンと行ったわけですよ。

NikonのFGだったかな、それで絶対に撮るんだ!って意気込んで。
でもレーザーディスクで見たパワフルなアート・ブレイキーはもうすっかり老け込んで、一緒に演奏していたメンバーも無名で、凄くがっかりしたんですわ。

アート・ブレイキーは日本が大好きだったみたいで
場末のライブハウスに、見慣れないアジア人の子供がフィルム写真機持っているのが判ってから、何度も目線くれていたりしてね。

ただライブが終わったら、周りみんな黒人と白人しかいないんですよ。
東洋人はシュンジさんだけ、しかもみんな小汚い格好なのに、東洋人のガキがめかしこんで写真なんか撮ってやがるという敵対心が、鈍感な私でも判るくらい身の危険を感じまして。
是非、拙い英語でアート・ブレイキー爺さんとお話したかったんですが、ほうほうの体でホテルに帰ったのを憶えてます。
ツアコンのおばさんに、しこたま怒られましたけどね(笑

高校時代にJazzって
どんだけ不相応なんだよ、つー話ですよ。

それから数年後、日本では平成になってアート・ブレイキーは亡くなりました。
亡くなる前に、例え衰えたとはいえ生で演奏を聴けて良い経験にはなりました。
惜しむらくは、その時撮影したネガもプリントも1人暮らししている時にアパートが火事になって消失してしまったことです。

いつの日か
ブルーノートのジャケット写真を撮らせて欲しいなぁと思う秋の夜です。