続編:延命寺と上田主殿


 

 


延命寺ご住職上田霊宣さまと、親しく懇談していただきました。その上、ご覧の美味しい

わらび餅と冷たいお茶までいただき暑い日でもあったので本当に美味しくて

有難かったです。


このお寺の概要や、上田主殿のお墓や当寺と

の関係、また主殿の生居跡などをお聞き

しました。


延命寺と上田主殿の関係については、このお

寺の一部火災の際に過去帳が焼失しており、

主殿の弔いなどの有無を含め、解らないとの

ことで、誠に残念!


翌日、ご住職よりメ-ルを頂戴しました。

義父である老僧に、その辺のところをお聞き

になられたそうです。

それによると、主殿の墓が延命寺にあるのは

美加の台団地の開発で当寺に移転されたこと

が判明しました。

当然、親族がいないため当寺が預かることに

なったという訳です。

その後、関係者が訪ねてきたことは

無いそうです。  


そしてご丁寧にも、椋本進氏が会長を務める

河内長野市郷土研究会の

「河内長野市郷土研究会誌」第56号

 H26・4発行の中の

「河内における天誅組」(松本弘)という

論文が掲載されていた資料の添付まで頂戴

いたしました。

天誅組河内勢として纏めた、大変参考に

なる論文でした。

尚、椋本進さまは、天誅組150年記念講座

として、天誅組ゆかりの「観心寺」に於いて

講師をされました、天誅組河内勢研究家

としてご活躍されています。


上田霊宣ご住職さま、重ね重ねお手数をおか

けして申し訳なく、また有難く存じます。


ここで我がYSBでのパ-トナ-さまが

上田主殿についての経過などをわかる範囲で

整理してくれましたので下記に掲載して

おきます。


幕末~明治 

主殿の異母兄四郎五郎清高が墓建立

          (弧月院)


 1943(昭和18)

四郎五郎清高の孫上田一枝が墓建立

          (勤皇志士)

 

 1973(昭和48)

樋口三郎「実記天誅組始末」刊行



 1981(昭和56)

美加の台造成開始



このことから推察して、現在、延命寺にある

主殿の墓は、1973年~1981年の間に

移ってきたということになります。


尚、1943年建立の墓について、

下部がおそらく30cmほど埋没している

ようです。

正面は「明治維新勤皇志士上田主殿墓□」

(「墓」の文字は草かんむりより下は埋没、

□はおそらく「所」の文字)と推察。


側面の建立者3名は写真をあらためて

確認すると、


林 總□

上田一□   □は埋没している字

加藤 鐡之□



樋口三郎氏は埋没した文字も記述されている

ので、お墓が移転される前に確認されたこと

がわかります。


上田一枝さんが中心になって建立された

1943年の墓は、もしかすると天誅組の

決起から80周年の記念だったのかも

しれませんね。

小規模でも法要などが執り行われたの

でしょうか・・・。


いつもながらさまの鋭い観察力

には敬意を表します。






ここ延命寺は紅葉の名刹として有名で大阪

みどりの百選に選ばれています。


樹齢1000年とも言われている巨大な

カエデ(もみじ)の老木は

「夕照もみじ」といい、大阪府の天然記念物

に指定されています。



秋の紅葉シ-ズンにはこのようになります。

この後、樋口三郎氏が歩いたと思われる場所

案内して頂きました。

「実記天誅組始末」によると

河内長野市三日市町から延命寺に行く道に

沿って岩見川が水音を立てている延命寺近く

で鬼住橋を渡る。 と書かれています。


                      鬼住橋

左手が部落で上田家の屋敷はここにあった。



ちょうどこの辺りに代官所跡(石垣が残る)

がありました。

多分上田家はこの辺りにあったのだろうと

推察できるも、現在この集落では上田という

姓の家は一軒も存在しないとのことです。



霊宣さんは、本当に親切に案内して

くださいました。

ひょっとして上田家につながるお墓がないか

と、この地区の人達が埋葬されるお墓にも

案内してくださり、残念ながら該当する姓が

見当たらず上田家にまつわる末裔の方には

行き着きませんでしたが、

今日も充実感のあった歴訪となりました。


最後に、第9回YSB講座は11月OR

12月初に、この延命寺さんの道場にての

開催依頼にも快く承諾くださり、また新たな

出会いとご縁が出来ました。


上田霊宣ご住職さま本日は誠に有難う

ございました。

   感謝 感謝 合掌